特別なココアを飲みながら

「南無」と「帰命」をイコールにお話しているのが、間違っているような気がして・・・と、K君に聞いた。特別においしいココアをごちそうしてくれて、K君は話してくれた。こんな大事な話し、忘れたらもったいないので、(今日はちょっと体力もあるので)ここにメモ。

しかれば、「南無」の言は帰命なり。(『教行信証』行巻177P)

帰命はすなわちこれ礼拝なりと。しかるに礼拝はただこれ恭敬にして、必ずしも帰命ならず。帰命は(必ず)これ礼拝なり。(『教行信証』行巻168P)

礼拝はただこれ恭敬にして、必ずしも帰命ならず、親鸞聖人が「しも」とわざわざよみかえているというところで重要な大事なポイントというのは聞いてきたのだか、

しつこいようだが、礼拝は恭敬(うやまう)であり、かならず帰命でない。
K君は言った。恭敬讃嘆が大事で、帰命していることを問わない、ということだと。帰命というのは「本願召喚の勅命」なんだけれども、である。

私たちは「どんなふうにしているか」と差別ばかりしているが、それを邪見という。佐野さんが同じような表現で言うように、「どんな生き様、死に様であるかが気になるのが邪見」ということなんである。

それからK君は言った、聖教のことばを因(原因)にして、あれこれということが多いが、聖教のことばは「果(結果)」なんである。(K君が藤場さんから聞いたこと)


これは、わけわかっているんだかわかっていないんだか不明な文章なんであるが、実はここはぞっとするような、私の話したこと・思っていることを全部否定するような言葉なんである。私はじいちゃんが念仏を喜んで生きているところを見て今ある。まさに「どんなふうにしているか」と差別ばかりしているんである。教えに歓喜・讃嘆し、報恩講の結讃に感涙するように生き方を「善し」としているのだ。そうではないものを「悪し」と、今日の言葉で言うと、「邪見・邪道」だと切り捨てたり、貶めたりしてる。そしてそう讃嘆ならない自分をあざけ笑っている。K君はそこをそうではないと、そうではないという言葉でない言葉で、伝えてくれたんだと思う。ありがとう。そうだから、話しながらも私はいつも不安で。

佐野さんは、だけど、そのままでは終われない、だから聴聞なんですよ、優しい顔でおっしゃいました。
ただ、仏法は、聴聞にきわまることなりと云々(蓮如上人後一代記聞書193)
これからも共に聴聞して参りたいと思います。

なんつう言葉で逃げてばかりですが、これからもよろしく。ありがとうございました。楽しかったよ、またね。今度はジンジャーエール用意しておくから。