同朋の会 資料 2009.12.5.

法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所 覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪 
建立無上殊勝願 超発稀有大弘誓 五劫思惟之摂受 重誓名声聞十方 
法蔵菩薩因位(いんに)の時、 世自在王仏の所にましまして、
諸仏の浄土の因、 国土人天の善悪を覩見(とけん)して、
無上殊勝(しゅしょう)の願を建立し、 希有の大弘誓を超発(ちょうほつ)せり。
五劫、これを思惟して摂受(しょうじゅ)す。 重ねて誓うらくは名声十方に聞こえんと。(『正信偈親鸞)

<なぜ、(『大無量寿経』の)法蔵菩薩の物語からなのか>

聖人のつねのおおせには、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と御述懐そうらいしことを、いままた案ずるに、善導の、「自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、つねにしずみ、つねに流転して、出離の縁あることなき身としれ」(散善義)という金言に、すこしもたがわせおわしまさず。されば、かたじけなく、わが御身にひきかけて、われらが、身の罪悪のふかきほどをもしらず、如来の御恩のたかきことをもしらずしてまよえるを、おもいしらせんがためにてそうらいけり。(『歎異抄』後序)

聖人が常に仰せになることとして、「阿弥陀如来が五劫という長い間ご思案になって発起してくださった本願をよくよく考えてみると、ただひとえに、親鸞一人のために外ならなかったのだ。そうであれば、この数知れぬ罪業をそなえた身であるものを助けずにはおかないと思い立ってくださったご本願とは、なんとかたじけないものであろうか」と、ご述懐なさっておられたことを、改めて考えてみるに、これは、善導大師の「この私は現に罪と罪業とをもって生き死にする身で凡夫であり、遠い昔より今日まで流転し続けであって、決して救いの縁なき身であると自覚せよ」という、尊いお言葉と全く同一である。
されば、もったいなくも聖人は、ご自身の身にひきあててお話くださることにより、このわれわれが、わが身の罪の深さも知らず、如来のご恩の高く尊いことも知らないままで迷い続けていることを自覚させようとの思召しであったとうかがわれることである。(『歎異抄講話4』廣瀬杲 法蔵館)

阿弥陀にすくわれるもの、浄土に往生するものは誰か>

「五劫思惟之摂受」というは、まず一劫というは、たかさ四十里ひろさ四十里の石を、天人羽衣をもって、そのおもさ、ぜにひとつの四つの字を一つのけて、三つの字のおもさなるをきて、三年に一度くだりて、この石をなでつくせるを一劫というなり。これをいつつなでつくすほど、阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘ともうせしとき、思惟してやすきみのりをあらわして、十悪五逆の罪人・五障三従の女人をも、もらさずみなみちびきて、浄土に往生せしめんとちかいましましけり。(『正信偈大意』蓮如)