じいちゃんから「ありがとう」、感涙。

お父さんが死んでからは80歳過ぎのじいちゃん(あの時83歳でした)が急に元気になって、しばらくの間はめそめそと二人でがんばっていましたが、私がなんもかも寺の仕事ができるようになった頃に、もうじいちゃんもすっかり弱ってしまいまして、足腰やら、内臓よりも、頭のほうが元気がなくて、少し前までは朝夕のお勤め、うちの寺の本堂でやっていましたが、そんなこともなくなりました。


こして、もごもごと口を動かして、「なんか口にはいっとるがんかいね」と母におこられて、くいちゅぶ(方言)で、食べても食べても食べたい。この前、今日は何日ですか?と聞いたらわからない。季節がわかりますか、ときいたら分からない。ここはどこや、「うちのながし」、「おながし」って分かりますか?台所の方言なんでしょうね。台所で聞いたんですけど、これはわかっている。おお、わかるんやねと、喜んでいました。
そんな感じなんですが、おばあちゃんは92歳で寝たきり、介護5なんですが、今月初めに母が旅行に行った時におばあちゃんのご飯の介助をしていた時、じいちゃんの仕事は週に三回のデイサービスとお昼寝みたいなもんなんですが、ばあちゃんは茶碗一杯のうどんを30分くらいかけてゆっくり食べるので、食べさしていたら隣で寝ていたじいちゃんがもそもそと起きてね、ばーちゃんの部屋をのぞいて、ばーちゃんが元気な時は「見んといて!」ということもあったんですが(きっかん、ばーちゃんなんですわ)、今はそんなこともなくて、


ばーちゃんの部屋をそっと空けて、いつもは(口もごもごと)こんなんしているじーちゃんがその時ばかりははっきりと、「ななちゃん、ありがとう!ごくろうさん!!」と言った。こっちこそありがとうだと、涙ぐんでしまいました。何を忘れても、そういうことは忘れない。なんだか人間の無性の尊さ感じました。うまくいえませんが、(「便利で早くてきれいな」ことばかりが求められるこの現代ですが、便利で早くてきれいでなくてもなんぼでも尊い、こういうことが尊いんでないでしょうか。)
そして、ベットの上で、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏
そんなじいちゃんに心があたたかくなることが多々あります。
七尾教務所「こころの広場」法話(抜粋)