「残された家族は(その人を)どう失っていくか」

友人からのメールを見て、2007年の教導補導合同学習会の時に聞いた梶原敬一先生の言葉を引っ張り出した。彼女は明日法事でお話しをするとのこと。私も父の七回忌に話した。そんな破天荒なことをするのは自分くらいだと思っていたから、彼女の存在はうれしくてたまらない。
子どもの死は親の死よりつらいと聞くことがあります。子どもをなくしてかわいそうやと、ところが梶原先生がいうには、「かわいそうだというのは第三者、かわいそうだと泣いてはいけない、泣いたら嘘になる、人の死はめでたいこととして送っていく、生きるという仕事を終えた」とこういうことをおっしゃる、そして「どんな死に方でも。」とおっしゃった。

世間の中で考えると、若くしてなくなったいのち、90歳で亡くなったいのち。ところが長さではない、生まれてきた、生きた、死んだ、人生の中では一緒。いのちあるものの死は必然です。大切な人が亡くなったとき、「残された家族は(その人を)どう失っていくか」ということがあります。亡くなった人をどうとらえるかというより、無くなった後にどのような関係を持つか、それは、対応というよりも、悲しむということでしか対話なされない。

ある、子どもを亡くした親は「悲しみをのりこえるのが私たちのつとめ」というが、そうでもない。一周忌、三回忌、七回忌、十回忌、二十五回忌、五十回忌、悲しみは時間と共に増すものということもあります。私たち浄土真宗門徒は亡くなった人を縁として法要を続けてまいったということがあります、それは死者と残されたもののであい続ける場を開くという願いが先達(昔の人)よりこめられている。死を縁としてどうか南無阿弥陀仏の教えにおうてくれよと、こういうことなんです。
仏教、真宗は死者と共に生きる道が伝えられてきた。葬儀、亡くなった人の追悼・追弔。亡くなった人を縁にして法要を重ねながら、悲しみを乗り越えるのではなくて、死者との時間をどれだけ共有できるか。
(2007年教導補導合同学習会にて 梶原敬一師)

今夜のうちに原稿作っておいたほうが楽よ〜。ということで、私も今から明日の報恩講法話の原稿作ります。お互いがんばろう。