人心の至奥より出ずる至盛の要求

ずっと書きたかったこと。(ちゃんとまとめられていないかも。)
9月の始めに、○○寺坊守さんから講師のお願いをされる。祠堂経に五日も呼んでくれるお寺で、とても親切にしていただいているので、いわれたことは一つ返事で受ける。快く受けた後、「いやちょっと待て、二月に県庁○○課OB会の講師って言っていたぞ」と青ざめる。後日私を推薦された方からお電話があり、9月22日、お二人で打ち合わせに当寺へ来られるということだった。

とにかく焦る。OB会とはいえ、それぞれに今も現場を持つ、父親くらいの年代の方々。「なんで、私?っていうか、なんで浄土真宗の念仏の教え?・・・」いろんな人に愚痴って相談する。「相手が県庁勤めだからってなんで自分を卑下してびびってるんだ、あんた自身がいつもいっている差別意識だろう(怒)そんなんじゃ、いつも聞いてくれている方に失礼だぞ(怒)」ほんとそのとおりだよ。また、「多くの人はまだ(若いから)念仏の教えなんて聞く気が無いから、逆に安心してなんでも話せばいいよ」とか「とってもいい機会ね、一番聞いて欲しい世代だもんね、○○ちゃんだったら大丈夫よ!」とか様々なアドバイスを。

9月はお葬式に忙しくバタバタと22日を迎える。久しぶりの来客だから、この機会に周りをきれいに草刈りして、プチガーデンを秋色に、茶色の菊やリンドウなど秋花を買ってきて、プランターに並べて、待つ。私を推薦してくれた○○さんは二年続けて祠堂経の話を聞きに来てくれているのだという。研修会は一年に一回、毎年講師を変えて開かれ、これまでにいろんなジャンルの方が講師に招かれたのだそう。箔○の社長さん、今年亡くなった松本先生の名もおっしゃっていた。

10月にはいって、通夜説法とお講の歎異抄十五条の話と自坊祠堂経の太子講の法話という一見繋がりの無い三連チャン法話を二日間に話さなければならなくなった。しかも、こころにはいつも2月の研修会で話すことを模索している。

太子講で話すために、『聖徳太子親鸞』という古い書物を手にする。著者は、西田幾多郎博士から親しく手紙を受ける。明治生まれで石川生まれと書かれていた。あとがきに書かれていた言葉にぐらり。

むかしの共産主義も、歳をとったら、やっぱり仏教でないといけんなぁ、としんみり。人間の主観よりも、もっと底のところに人間のしんじつが働いている。平常底を一歩一歩つよく大地を踏みしめていきたい。(『聖徳太子親鸞』美濃芳雄著 永田文昌堂刊)

ようやく探していた言葉に出会った気がした。『歎異抄』の勉強会のために手に取った本(『歎異抄講話3 高倉会館法話集』著者:廣瀬杲 発行:法蔵館)の言葉に琴線が反応する。同じことだと思った。

人心の至奥より出ずる至盛の要求(清沢満之)

それを現代的に言うと和田先生の言葉がぴったりくる。

(宗教心とは)特別な心ではないんです。人間であるならば、ちょっと真面目に考えた ら誰でもが願わずにおれない確かな生き方への欲求、それを宗教心という。
「私は無宗教だ」という人がいます。それはたぶん、今流行っているあらゆる宗教を信じないと言うんでしょう。いわゆる既成宗教というものを全部信じない。それほどその人は痛切に本当の生き方を要求しておるのです。(『仏法と世法』 講述 和田稠 聞思舎発行)

まさに、「通夜説法とお講の歎異抄十五条の話と自坊祠堂経の太子講の法話」という一見繋がりの無い三連チャン法話と、「県庁○○課OB会の研修会」に貫かれることだと思う。「人心の至奥より出ずる至盛の要求」という言葉にまた立ち返る機会を与えられたことに感謝している。