『おやまごぼう』を読んだ―松扉 等さんに感動!

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おやまごぼう 第286号 真宗大谷派金沢別院 年間購読料1200円(含送料)
『お文』を読む
諸仏のはたらき 松扉 等
長く二人で暮らしてきた仲の良い夫婦の、奥さんの方が病気になり、ご主人が看病と家事を一切こなし、自宅療養をしていました。しかし、昨年の冬、その甲斐なく亡くなりました。葬式を終え私もタクシーに同乗して斎場に向かいました。斎場に到着してタクシーを降りる時、「あァあ、これで、これの(妻の)すがたも、のうなって(無くなって)しもうがいの」という、ご主人のなんとも言えない微かな呟きが私の耳に入りました。独り言のようだったので、相槌を打つこともせずに私は黙って下車しました。今になって思えば、どのように相槌をうってよいのかわからなかったのかもしれません。それほどまでに寂しい声でした。

信心獲得すというは、第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるというは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。このゆえに、南無と帰命する一念の処に、発願回向のこころあるべし。
『御文』五帖目五通

ここに「南無阿弥陀仏のすがた」ということばが使われています。以前平野修先生が講義の中でこのことばを取り上げて、分かり易く話してくださったことがあります。『御文』にはカナで「すがた」と書かれているが、もしも漢字に直せば「姿」ではなく、「相」という字になる。人間で例えると、背が高いとか低いとか、痩せ型だとか太っているとか、髪が濃いとか薄いなどの容姿・外見を「姿」という。それに対し、優しそうとか冷たそうとか誠実そうなど、その人がこれまでどう生きてきて何を考えているのか。人相という熟語があるように、その人の内面の構造が顔に表れるようなすがたを「相」で表す。今「南無阿弥陀仏のすがた」というのは、衣を着て後光を背にして立っておられる阿弥陀仏さまのことではなくて、南無と帰命する人に信心を獲得させたいと願う阿弥陀仏の第十八願の救いの構造、本願のはたらきのことをいうのです(講義内容の要約)、と。


さて、確かに亡くなった奥さんの生前の姿(顔)はもう二度と目にすることは出来ないでしょう。しかし死を逆縁としてご主人を仏縁に導こうとする、そのような諸仏のはたらきをする奥さんのすがたがあるのではないでしょうか。諸仏となり、念仏申す身になれと導きはたらきかけてくれる新たな奥さんのすがた。ご主人には南無阿弥陀仏と称える処に、その奥さんのすがたにであって欲しいと、タクシーを降りて歩き出した時、私はそのように願っていました。


一時間半の時間が過ぎてようやくお骨をひらい終え、その骨箱を手に抱こうとした時、「一生働いてきて、残ったのはこれだけなのか」という、ご主人のなんともいえぬ無念の声がまた聞こえてきました。人は一生生きてきて、残るのは本当に人箱の骨だけなんだろうか。私には素朴な疑問が沸きました。殊更に亡くなった奥さんには、ご主人のためにも諸仏のすがたとして残って欲しいと思います。