『念仏の鼻』祠堂経(1)(後半)

さて、後半は元気を出して私の18番、というてもたいしたもんでもないですが、聞いていただくことにします。私は図書館へよく行く。三月からずっと忙しくて毎日みたいに法話の機会をいただいて、じいちゃんの七光りやね。有難いことに忙しくて、しばらく行っていないのですが、行ったら忘れずに『マンガ日本昔話』のビデオを借りてくる。私の子どもの頃に放映していたから懐かしく、娘も気に入ってくれている、当然母も喜んで観る。これまでたくさん観たが、意外に坊さんが出てくる話や念仏が出てくる話がたくさんある。これらは昔話では題材になりやすいといえる。ということはそれだけ身近だったのだろう。はたまた御利益(ごりやく)があったのかもしれない、今と違って。「念仏の鼻」というお話を観ました。


昔々、瀬戸内海に浮かぶ小さな山の山頂に一人のやまんばが住んでいた。
ある日、海に船頭の親子が船を出していた、突風にあおられ立ち往生していた。どうしようもないので、見つけた薄気味悪い島に、船をつけることにした。
島についた二人は枯れ枝などで焚き火を起こした。するとそこに「たき火かね、わしもあたらしてもらおう」と大きなやまんばがやってきて、焚き火に手をかざした。恐れをなした息子は隙をついて逃げ出そうとするが上手くいかない。しばらく無言の時が流れた。


やまんばは(人というご馳走を得た満足感から、)焚き火で気持ちがよくなったのか居眠りを始めた。息子が立ち上がって船の方に走ると、やまんばが「どこへ行く?」と声をかけた。親父が「船にある鯛をとってこようと思って」と答える。船の方に走っていった息子が「オヤジ、鯛はどこじゃ?」とたずねる。親父はやまんばに「場所がわからんか、ちょっとみてくる」といって船へ向かった。


やまんばは居眠りをしているから気がつかない、二人はこの時ぞとばかりに逃げ出した。風も味方してくれたのだが、船が岬の先端近くを通ろうとした時に、すでにやまんばが岬に立って、「どうしたんじゃ、どこへ行く」といってにやにや笑った。


漁師の間では、やまんばの乳が船にかかると船が動かなくなるという言い伝えがあった。
やまんばは白い乳をピューピューと船に向かってかけた。船頭たちはかわしながら必死で逃げる、


なんとかもう少しで逃げ切ることができると思ったその時に、ひとしずく、船の舳先(へさき)にかかってしまった。「艪(ろ)が動かない!」と息子が悲鳴をあげる。親父は必死で乳のかかった舳先(へさき)を包丁で削ったが船は動かない。「もうだめだ」息子があきらめた時、親父は何を思ったか、「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏・・・」と一心に念仏を称えながら包丁で削った。


「う、う、うー、・・・」やまんばが泣き出した。そしてやまんばは泣き続けた。
なんと船は再び動けるようになった。
人間を食べてしまうというやまんばに念仏のありがたみがわかったのでしょうか、いつまでも岬の先端に立って泣き続けたそうな。


そういうって市原悦子のナレーションがあって終わるのですけれども、どうですかね、はじめて見たとき、「は?(ぽかん)」とした。「次、狐のやつ見よ。」と思った。でも、なんとなくこころに留まっていて、その後、何回も見た。


さて、私たちは人喰いやまんばが泣いたような念仏を聴いたことがあるのでしょうか。


なぜ、「ぽかん」とするのか、藤場俊基先生の言葉を思いました。

ここにいる人の誰一人として、最初からお念仏の教えはすばらしいと思っていた人はいないと思います。はじめて念仏の教えに触れた人は、ほとんど例外なく「そんなものでどうなる」と、そっぽを向く。私たちは誰一人として、そのことにうなずけないのです。でも浄土真宗はそのこと一つです。浄土真宗から「ただ念仏すべし」を除いてしまったら何も残りません。『親鸞の仏教と宗教弾圧―なぜ親鸞は『教行信証』を著したのか』藤場俊基著 明石書店


この「ただ念仏すべし」という言葉は、私たちも親しみ深い、『歎異抄』の二条を思います。

親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。
(この親鸞においては「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしと」よき人のお言葉をいただいて、信ずるほかに別のわけはございません。)


これは関東のご門徒が京都の親鸞聖人に、命懸けで会いに来た、教えを聞きに来た時に、おっしゃった言葉です。少し紹介しますと、

二 おのおの十余か国のさかいをこえて、身命をかえりみずして(命懸けで)、たずねきたらしめたまう御こころざし(私のところにたずねてこられたのは)、ひとえに往生極楽のみちをといきかんがためなり。(ただひとすじに往生極楽の道を問い聞くためです。なにをしに来たのかとは聞かない、往生極楽の道を問い聞くために来られたと言い切るんですね。)


なぜ関東のご門徒が命懸けで会いに来たのかというと、昨日も申しましたが、念仏を称えたと言うことで法難にあい、親鸞聖人は35歳の時に越後に流罪にあう、それから39歳の時に流罪を許されてから、関東で念仏の教えを伝え、親鸞の教えを喜ぶ教団が出来た。
62歳、息子善鸞に関東の教団を任せて京都に帰る。ところが84歳の時に「善鸞義絶」当時は人間50年、50歳で亡くなってもそうめずらしくもない時代に84歳なんていうのですから、現代よりもっとオジジやね、そんなオジジになってから、息子と縁を切った。
息子善鸞が、関東の教団の同朋に、父親鸞聖人が嘘をいっていたのだと、私にだけ本当のことを教えてくれたのだと、私の教えこそが正しいと言った。
それから、これまで聞いてきた教えを信じていてもいたずらごとだとか、
恵信尼がいいまどわしただとかと、
そういうことを善鸞が書いた手紙を、親鸞聖人が見たと、
「どういうことや」と善鸞に宛てている手紙があります。


息子善鸞によって(善鸞がいいまどわしたことで)関東の教団が崩壊寸前になった。


それで、関東の同朋が命懸けで「本当の所はどうなんだ」と聞きに来たのがこの場面です。余談ですが、友人(23歳)が今、東京から京都まで東海道を歩いています。「命懸け」というけれども、「同時の旅は命がけであったという、坊主の先生の戯れ言(ざれごと)に聞き飽きたので、なにが命がけなの?ということを証明したい」といって、1月の半ばに出発しました。三月の終りに京都について折り返しています。「東海道五十三次」という言葉も耳慣れた言葉ですね、五十三の関所がある、それはそれは長い距離。太平洋側だから、北陸と違って雪などの寒さの心配はないといえども、距離が長いから途中に盗賊にあって命を落とすということもあったそうです。


歎異抄』筆者といわれる唯円房その人が関東から聞きに来た、張本人。
歎異抄』二条にかえりますと、

しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておわしましてはんべらんは、おおきなるあやまりなり(しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、またそのための経文などを知っていると、心憎く思っておられるのは大変な誤りです。)

もししからば、南都北嶺にも、ゆゆしき学生たちおおく座せられてそうろうなれば、かのひとにもあいたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。
(もしそうなら、奈良や比叡山にも優れた学者たちがたくさんおいでになることですから、その人々にでもお会いになって、浄土に生まれるための要をくわしくお訪ねになるのがよいでしょう。)

親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。
(念仏は、本当に浄土に生まれる種なのか、また、地獄に落ちる業になるのか。総じてもって存知せざるなり。わからない。)

どうですかね、私たちが命懸けで聞きにいきたいことってあるでしょうか。
命懸けで念仏の教えを求めているか、そんなわけはないですね。それどころか、念仏がいらなくなっていませんか。私にとってはあってもなくてもいいものになっています。みなさんはどうでしょうか。
「これまでずっと大切にされてきたものだから、私も同じように大事にしたい」その気持ちは有難い、尊いものだと存じますが、「今、念仏がいらなくなっている」そのところに立ち返って、ではなにが大事にされてきたのか、念仏の何を守りぬいてきたのか、私たちはいよいよ聞いていかねばならない時をむかえているのかもしれません。