聴聞メモ 断片 08/02/10(3)-1

(前回からの続き)【 】内は自分用のメモ
【同朋会運動などの歴史と内容】
(私たちの日常の生活では)痛みを持つということがないが、聞法することによって、「立派なものに思われたいという欲望」によって自ら首をしめていることが見えてくるのが同朋会運動。これが自分を苦しめている。それが見えてくるのが同朋会運動。

同朋会運動が起こってから、
部落差別問題、同朋会運動の実現、宗憲改正案

同朋会運動の推進 同朋社会の顕現

その次の年1982 内局 天牌を外す。 阿弥陀堂から外した。
1983 中曽根首相の時代に、靖国神社参拝反対

国差別民族を超えたい 部落問題 存在の平等 権力(お上(おかみ)) 個の尊厳

親鸞が言われた雑行。
自分の価値を人によって変えろといわれてもどうにもならないが、
「願」は個人でなく人類の悲願 「雑行を棄てて本願に帰す」私たちは阿弥陀さんと自分を別に考えるが、存在・個を回復したいというのは人類の悲願。比較することのないような存在の平等性を回復しよう。
戦争協力など非常に恥ずかしいことをくぐりぬけながら、問われ続けてきた。


【「同朋社会」の反対は「敵・味方社会」】
750回御遠忌のテーマ「今、いのちがあなたを生きている」「宗祖としての親鸞に遇う」テーマからどの方向に進むのか見えてこない。教団がどう考えているかより、僕がそのテーマをどういただいているか問われている。


同朋社会 お金のない人は、お金のある人は・・・そういうことがはっきりしない。
同朋社会の反対はなんなのか、それは「敵・味方社会」。何が基準で人を敵・味方にするだろうか。「今、いのちがあなたを生きている」の反対は、「今、あなたがいのちを生きている」これが、敵・味方社会だといえる。「いのち」は何かというと、それをもって自信をつけられるもの。誇れるもの。自慢、自信がつくもの。健康、業績、能力、子どもということもある。自我的欲望を満足される、自分を価値付けるもの。これが人。「浄土真宗」がいのちと思っている人にはそうでない人には腹が立つ。いのちの価値を認めてくれる人はいい人に。逆に敵は自分の価値を認めない人。味方と思わせたい人には「褒める」。そうすると得をする。


昨年は親鸞が京都で20年何に苦しんだかを話した。親鸞29歳のとき「しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。」

ある点から言うと宗教の門に入ったものは、自分を非常に侮り、非常に軽んじるのである。進んでいえば、宗教の門に入ったものは、自分の価値をゼロ位におくのである。(『現代語訳 清沢満之語録 今村仁司〔編訳〕』より)

清沢満之自身は『臘扇記』、臘扇(ろうせん)というのは冬の扇、役に立たないもの、と名称られた。
親鸞の「鸞」は曇鸞の「鸞」曇鸞をあきらかに。浄土をくぐれば、価値ゼロが無限大の価値がある。これが浄土ということ。