「旃陀羅」についての用語解説

『観経』には「栴陀羅」とあるが、通常は「旃陀羅」と表記される。「旃陀羅」は梵語チャンダーラの音写であり、古来中国では「厳熾(ごんし)、執悪(しゅうあく)、険悪人、執暴悪人、主殺人、治狗人、屠者」などと訳されてきた。


インドでは紀元前八〇〇年ころから、「婆羅門(ばらもん、ブラーフマナ、僧侶階級)」、「刹帝利(せっていり、クシャトリヤ、王族・武士階級)」、「吠奢〔舎〕(べいしゃ、ヴァイシャ、農工商階級)」の四つの身分から成る「ヴァルナ体制」(いわゆる「カースト制度」)という階級制度が形成されたが、さらにその四つの階級の下に位置づけられた人びとがいた。そのように、社会の現実として実態的な差別があり、その最下層の人びとを呼ぶ名称として「旃陀羅」という言葉が用いられた。したがって「旃陀羅」という言葉はアーリア民族等支配階級の立場からする政治的社会的な差別語である。


現代の歴史学的研究によれば「首陀羅」「旃陀羅」などの最下層に位置づけられた人びとは、「婆羅門」「刹帝利」などの支配階級となったアーリア民族が紀元前一五〇〇年頃インドに侵入してくる以前からインドに住んでいた人びとであり、したがって先住民族が征服されて、政治的社会的に支配され抑圧されたものであるとも言われている。


『観経』「序文」の中で月光大臣が阿闍世を諫(いさ)めるときに発した「是栴陀羅」という言葉は、「自分の母を殺す者はあの栴陀羅と同じだ」という意味であり、それは政治的社会的差別構造の上に乗っかって比喩的に発言された差別発言である。現在私どもはここを読むとき、このことを先ず基本的に注意しておかなければならない。―なお、現代でもインドではそのような差別に苦しむ人は存在し、差別からの解放のために立ちあがっている。


さらに重要なことは、わが宗門では、江戸宗学以来この「栴陀羅」を日本における被差別民衆である「穢多」にたとえて説いてきたという事実である。「士・農・工・商・穢多・非人」といわれた江戸時代の差別の構造にそのまま乗っかり、「栴陀羅」を「穢多」にたとえて説明することによって、宗門の教化活動は社会の差別構造の温存助長に宗教的な根拠を与えるといういたましい機能をはたしてきたのである。このことは全国水平社設立以来、七〇数年にわたって厳しく問われ続けており、宗門の教学史・布教史における差別の問題として、私どもは深い慙愧の念をもってその責任を荷負していかなければならない。
『現代の聖典(東本願寺発行)』(『観経』序文、同朋会運動テキスト)より

前日のコメントを受けて
何度か「同和問題」「被差別部落問題」という名の研修会に参加しました。いまだに私には抱えきれない問題ですが、同時に大谷派教師として付きまとう問題でもあります。付きまとうという表現も妥当でないかもしれません。考えると辛いけれど、決して無視できないというような感覚です。個人的な意見としては、この問題に真剣に取り組んでいない第三者が批評することではないと思っています。現に研修会は続いています。それは対策や指針を述べるものではなく、共に生きることが提起され続けているのではないでしょうか。「スキャンダル」として書かれることにはあまり関心がありません。何が知りたくてその本を読むのでしょう。現に被差別によって苦しんでいる人のことを思うと、乱暴な表現は謹んで下さるようにお願いいたします。