「命懸け」に迷う

本を読み、プレッシャーを感じる。自分なんかが法話に呼ばれることとの「差」を感じずにはおれない。先生と私と並べて焦るのはおかしいけれど、聞きに来る人は変わらない、自分が「真剣でない」ことに切羽詰る。
NHK「知るを楽しむ選・人生の歩き方」玄侑宗久氏を観た。地区の人の憩いの場にと開いた図書室、「イベント和尚」と呼ばれる行動力、そしてきれいな石庭。私は、最低だと嘆いているだけ。

「命懸けでなければなりませんか」と声をかけてくれる人がいた。

親鸞は『浄土論註』を通して、法蔵菩薩に注目していく中から他力とか回向という概念を見出します。そのことで言わんとするのは、自分自身で努力したり、考えたり、意識したり、意図することが、結果に対して何の効果ももたらさないということです。つまり絶対なるものとの関係の成立、普遍妥当性が実現するために、私たちが仏道において何かができるということをまったく認めないのが他力ということです。(『親鸞の仏教と宗教弾圧―なぜ親鸞は『教行信証』を著したのか』藤場俊基著 明石書店)

ふと、絡まっていた糸がほどけた様な気がした。