寒中見舞いの補足その3(結)

ドラエもんに「独裁者スイッチ」という名話がある。何人かの坊さんが法話で話していたことを聴いたことがある。
なにかがきっかけになって怒りの火が燃え出したら、周りにあるもの全てを焼き尽くしてしまいたいくらい怒り狂う時がある。あいつもこいつも私も消えて無くなれと。
でもそんな私は嫌なんだ。憎らしい相手が一人ずついなくなっても解決にならない。人を呪う自分を嘲け笑っても傷みは増すばかり。
誰も恨まなくていい自分も責めなくていい処を渇望する。


親鸞聖人は『一念多念文意』に、リアルに人間の存在を書き記す。

「凡夫」は、すなわち、われらなり。
凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、(水火二河のたとえにあらわれたり。)
親鸞『一念多念文意』

凡夫というのは、道理に暗い煩悩でいっぱいの、欲が多く、怒り、腹立ち、嫉妬し憎らしく思い(そねみ)、ねたむ心が多く、暇なくして臨終の一念にいたるまでとどまることなく、消えない、絶えない、(そういうことが水火の二河白道のたとえにあわられている。)

私は思う、だからこそ、「清浄業処(しょうじょうごっしょ)」をねがうということがある。煩悩でいっぱいの私は「どうか争いのない処を教えてください。」と泣くしかない。

どうか世尊よ、このわたくしのために憂いや悩みのない世界をくわしくお教えください。わたくしはそのような世界にただちに生まれたいのです。汚濁と罪悪にみちたこの世にはいたくありません。この汚れた世界には、まさに地獄・餓鬼・畜生の境涯におちいっているものたちが満ちみち、よからぬ輩が群れをなしています。わたくしはもうこれからは悪事を耳にしたくはありません。悪人も目にしたくもありません。今、わたくしはみも心も世尊の前に投げ出して、お慈悲を願い、わたくしの罪を懺悔(さんげ)いたします。どうかお願いです、世の闇を破る智慧の光である仏さま、わたくしに教えて少しの濁りもない清らかな国をみることができるようにしてくださいませ。
『観経【仏説観無量寿経】』文意「現代の聖典東本願寺

維摩経』に次のような言葉がある。
「高原の陸地に蓮を生ぜず、卑湿淤泥(ひしつおでい)に蓮華を生ず(『維摩経』)」
すっと風が吹き渡る高原では蓮華は咲かない。「卑」「湿」「淤(どろ)泥」に蓮華は咲く。蓮華は清浄なる華。煩悩でいっぱいな、欲が多く怒り腹立ち嫉妬し憎らしく思いねたむ心が多くて暇ない処に咲く華。

寒中見舞いの補足を三日にわたって書いてみました。高校や短大の友だち、意味わかったかな・・・興味のあるかたの質問を随時受け付けてます。しかし、80枚もだしているんだから、一人くらいは「見たよ」ってだけでもいいからコメント欲しいものです。寂び寂び。