寒中見舞いの補足その2

お正月に家族でトランプなどして遊んだことがきっかけで激怒。住職が「あんなおこりんぼうはほおっておけ」だの「やってやれ!(こらしめろ)」だのと執拗に言って、娘と二人で嫌がらせを連発するので、堪忍袋の尾が切れた。介護の仕事をしている住職はほとんど家にいないか寝ているかで、たまーーに娘と遊んであげてるからって調子にのっていると感じる。たまにしか一緒にいないから母親ほど口やかましくなく過ごすことができる。大体、朝起きる、着替える、朝食を食べる、保育園へ行く準備を整える、のところで怒る、あるいは三度の食事をはじめとする生活のこと、そんなところで男が子どもの世話をしているわけではない。そして怒っていること自体に本人が傷みを感じていることを知らないのだろう。年末にいとこが大集合して(「wii」の「やわらかあたま塾」で)遊んだ。上手に出来ない子もそれなりにみんなで楽しんだ。私は誰かを悪者にして、ののしって遊ぶなんてことを娘に勧めたくはない。

前述のとおり21日から6日まで「娘」という箱でないものの箱に缶詰になっていた私は、「阿闍世」を思う。親というのは自らに背く者のために人生の大半を費やすのだろうか。「そうだこの子さえいなければ・・・」と怒りが沸きあがる。さらに過去に家族からいわれた言葉や、昨年ご門徒から「あんたなんかに少しも期待していないのよ」とさらっといわれて「そうですよね♪」とさらっとかえしたことも繰り返し想う、あの時あの人のあのことが腹立つとひっぱり出し指折り数え全てが憎らしくなった。ブツブツと数える怒りが最高点に達した時、
誰も恨まなくていい自分も責めなくていい処を求めた。「清浄業処」、「観経」だ。

時に韋提希、仏世尊を見たてまつりて、自ら瓔珞を絶ち、身を挙げて地に投ぐ。号泣して仏に向かいて白して言さく、「世尊、宿何の罪ありてか、この悪子を生ずる。世尊また何等の因縁ましましてか、提婆達多と共に眷属たる。
唯、願わくは世尊、我がために広く憂悩なき処を説きたまえ。我当に往生すべし。閻浮提・濁悪世をば楽わず。この濁悪処は地獄・餓鬼・畜生盈満して、不善の聚多し。願わくは我、未来に悪声を聞かじ、悪人を見じ。いま世尊に向かいて、五体を地に投じて、求哀し懺悔す。唯、願わくは仏日、我に清浄の業処を観ぜしむることを教えたまえ」と。『観経【仏説観無量寿経】』

清浄の業処を観ぜしむることを教えたまえ、争いなく、腹の立つ言葉がない、憎むべき人のいない世界を願います。

韋提希がむちゃくちゃ落ち込んだりめちゃくちゃ腹立てて愚痴をぶちまけた末でてきた「憂い悩むことなき処をお説き下さい。」「争いのない処を教えてください。」(原文で言うと「無憂悩処むうのうしょ」「清浄業処しょうじょうごっしょ」)という言葉が身にうなづけた。泣いた。

ところが、「清浄業処」を願う気持ちは「きっかけ」にしかならない。観経ではここから続きがあるように、「清浄業処」を願う気持ちが即ち争いが止むということではない。実際それから数日怒りの火は消えなかった。
その3(結)に続く。予告「欲も多く、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなく(一念多念文意)」「高原の陸地に蓮を生ぜず、卑湿淤泥に蓮華を生ず(『維摩経』)」