御正忌法話―後半末法の仏弟子

さて12月のはじめに葬式があった。50代男性で、弔辞は「飲まん会」の仲間が「大好きだった」と涙ながらに語った。多くの人が思わずもらい泣きする、私も。ところが、最後は、予想はしていたが、「冥福」を祈っていた。予想していたからがっくりともしなかった。ただ、「私たちは今何をしているのだろう」と思っていた。葬儀の会場で僧侶が「私は今何をしているのか」と思う、実はこれは私にとっては珍しいことではない。
そんな自分の目が行くのはまず「焼香」。おしいただく人が三分の一くらい。それから、一回する人、二回する人、三回する人。焼香の儀式は宗派によって違う(だけ)。大谷派はおしいただかずに、抹香を仰いだりしませんので。二回するのが正解です。地元の町会議員さんが抹香を整えて直していた。さがやね。
気になるのが念珠(数珠)、白パール・白房の念珠を持ったおじさん、それは女物。茶色の丸いたぬきのなんじゃらみたいふかふかのついてるのは男物。女の人が持っている、「念珠を忘れて隣のおじさんにかりたかな」と腹の中思っている。意外と見ているものなんですよ(笑)、『正信偈』をあげる以外になんもすることないしね。そんなときふと「私は今何をしているのか」「葬儀ってなんだ?」と思う。その日は師走の総報恩講参りの真っ最中ということもあって、僧侶たちは霊柩車より先に、蜘蛛の子を散らすようにその場からいなくなった。
偽善だけれども、「死の痛み」に鈍くなっていると感じています。偽善であっても、死の痛みを感じることなく葬儀を勤めたくない。だから辛い。顔も知らない人が亡くなったことを悲しいわけがない、と思っていた。葬儀の参列者はほとんど亡くなった方か亡くなった家族のかたとの有縁の方ばかり、僧侶たちだけが本当は感情のところで浮いている。私は決して「僧侶も悲しもうよ!」と思っているわけではない、でも「何をしているのだろう」と立ちすくむ。おそらく、浄土真宗の葬式といいながら、そんなものにはなっていないと自分にも葬儀自体にも感じるのだと思う。どうですかね。

昨日は末法仏弟子ということ、末法は、仏(自体)がわからない時代であり、仏弟子といっても仏ということがわからないからすくいがわからない、涅槃が自分のすくいとならない。仏法によってすくわれようと誰も思わなくなった。如来の遺弟悲泣せよ。そこに立って、親鸞聖人は「弥陀の本願信ずべし」という声を(夢告で)聞いたから、いつの間にかまた仏道ということに立っていた。もう一度迷いに立ち返って、もう一度聞く原点に。仏がわからない末法の時だからこそといよいよこれから聞くという意欲。ということを聞いていただいていた。

(さて)そうもんもんとしている日々なのですが、先日(ネットで)「仏教は宗教でなく哲学である」という方にであった。(ここはいいませんでしたが、一見、逆と言うか、表現が違うのですが、書かれていることは教科書に書いてあることと同じだと思っています。それを「宗教」と呼ぶかそうでないか、というだけで、下記の第二の意味「宗教は人格神(創造主)への信仰、恩寵を与える神との再結合」を否定することは実はすごく大切なところだと思っています。)
みなさんはどう思われますか、そこで私は教科書を開くことにした。はじめに仏教は宗教であろうか、という問いが立てられます。中国仏教では仏典解釈の中心課題を名(みょう・名称)体(たい・実態)宗(しゅう・枢要)用(ゆう・効用)教(指示)の五項目の上で要約する事が行われていたが、そのなかの「宗」と「教」が熟して「宗教」という語を造ったと推定される。ようするにもともと「宗教」という言葉は中国の言葉で、「仏教の要点を表示する文字やことば」という意味であった。
ところが明治以後になってreligionという英語の訳語として「宗教」が用いられるようになった。religionには二つの意味がある、一つは再検討、二つは再結合。「神と人間との再結合」ということ。人格神(創造主)の信仰を基礎としている宗教、すなわち、創造主である神にそむいた人間が、恩寵を与える神の愛によって再び救済されていくという、人格神への信仰にもとづくユダヤ教とかキリスト教とかイスラム教にとって適切な解釈であるといえるが、もとより人格神(創造主)をもたない、神を持たない仏教は、第二の意味でのreligionであるといえない。
第一の意味でのreligionの意味は「人生を注意をもって再び見直す」という意味に理解してよいであろうから、宗教とは日常生活をもう一度注意をもって見直し、再吟味・再検討するということになる。第一の「再検討」という意味において、仏教は「宗教」であるといってよい。
Religion 再検討、ということから、それでは今度はお土産代わりに持って来たこの「真宗の生活」をお渡ししいたしまして、24p「忘恩」のところを読んでみたいと思います。
これが仏教が宗教であるという再検討ということなのかもしれません。

さて、最後にですね、今回の主題は「末法仏弟子」ということだった。
何か虚しい、なにをしているんだと、昨日も法話が終わってから総報恩講のお参りにいってきた。報恩講といってもなにもそれが喜びとならない。私のところにも報恩講をお迎えしている方にも。それから、せっかく法話の機会をいただいても、人から聴いたことばかりしか言えない自分が虚しい、いくら聴いても中味が空っぽなんですね。やらんなんことやら、やりたい事があるが、立ちすくむばかり、報恩講をお迎えしていることがなぜ喜びにならないかというと、喜びになるほど私が伝えてこなかったんですね。
でもどうですかね、虚しいままでもいいんでないかと、虚しいままもとめていけばいいのでないかなと思っています。

最後に佐野さんの言葉をお伝えしたいと思っていたのですがやめますが、でもこれだけ、

もう一度迷いに立ち返って、もう一度聞く原点に。いよいよこれから聞くという意欲がある。

そこのところで、これからも共に聴聞して参りたいと思います。今日は足元が悪い中ようこそようこそお参りくださいました。ありがとうございました。