葬儀の愚痴

葬式だった。50代男性。弔辞は「飲まん会」の仲間が「大好きだった」と涙ながらに語った。多くの人が思わずもらい泣きする、私も。最後は(予想はしていたが)「冥福」を祈っていた。予想していたからがっくりともしなかった。ただ、「私たちは今何をしているのだろう」と思っていた。葬儀の会場で僧侶が「私は今何をしているのか」と思う、実はこれは(私にとっては)珍しいことではない。

そんな自分の目が行くのはまず「焼香」。おしいただく人が三分の一くらい。一回する人、二回する人、三回する人。地元の町会議員さんが抹香を整えて(直して)いた。「それ女物ですよ、白パール・白房の念珠(数珠)。茶色の丸いふかふかのついてるのは男物。」と腹の中で突っ込んでいる。きれいな手の中年壮年男性が多い葬儀だった。「私は今何をしているのか」。「葬儀ってなんだ?」。その僧侶たちは霊柩車より先に、蜘蛛の子を散らすようにその場からいなくなった。

偽善だけれども、「死の痛み」に鈍くなっている。偽善であっても、死の痛みを感じることなく葬儀を勤めたくない。だから辛い。顔も知らない人が亡くなったことを悲しいわけがない。