通夜説法Nのおばあちゃんとの想い出から

みなさま本日は○○さんのお通夜にお集まりいただきまして、誠にありがとうございます。はじめにお詫びをしなければなりません、このような大切な場に当寺、住職が出席することができず、私が代理で参ったことを大変申し訳なく思います。

亡くなったという報せをいただいて、Nのおばあちゃんのことを想い出していました。とてもお話するのが好きだったんですかね?私が月忌参りに行くと、(私の村は屋号というものでそれぞれのおうちを呼ぶのですが、Nさんのうちは「n」、)「n」に行く時は、次の予定がたくさんない時でないとダメで、参りに行くとおばあちゃんが30分くらいはお話してくれる。たいがい同じ内容です。まずですね、立派なご仏壇の話、真宗門徒はお内仏と言う。三方開きです、でっかい、お寺のご本尊のような阿弥陀さんの木像があります。それからそれから・・・とにかく由緒正しいお内仏です。そして亡くなった添いあいさんTさんのこと、そして「大好きやった」と亡くなった私の父のこと、Tさんのお葬式のことを写真を見せてくれてお話してくれました。私も父を思って月に何度か泣かされるのでした。

今は月忌参りを、ばあちゃんに、こういうたら乱暴ですが、入院された時にしっかりしつこくお願いされまして、うちの寺でしております。私の母がですね、11日と13日は忘れないで、老僧に声をかけています。

入院されてから私も母と一緒にお見舞いに行きました。母を「じょうちゃん」と呼んでおられたのですが、「じょうちゃんの梅干はおいしいおいしい」と言って喜んでくれた。「村に帰りたい」と言っておられた、「はよ帰ってこんなんよ、待っとるよ」と話をしていたことを想います。今日ここに来ておられる方それぞれに深い、○○さんとの想い出があることだと思いますが、思い出話ばっかりしていてもだめやね。

さて、イギリスの科学者であったファラデー先生は学生達に母親の涙が入っている試験管を見せながら、「人間の涙は科学的に分析すれば、ただ多量の水分と少量の塩分とに分析されるだけだ。しかし、母親の涙は決してそれだけのものではない。その奥には分析しても分析しきれない、子への尊い愛情というものがあることを諸君は決して忘れてはならない。私達の住んでいる社会は目に見えるものと目に見えないものによって成り立っている。そのうち目に見えるものは大切にされやすいが、目に見えないものはつい忘れがちになる」と話されました。

盂蘭盆経というお経があります。お盆の説話として有名なのですが、先ほど申しましたファラデー先生の言葉にも同様で、その背景にあるものに注目することがとても大切だと思います。

お盆の説話はご承知のように、お釈迦様のお弟子さんで親孝行であられた、目蓮尊者の故事がその由来となっています。目蓮様は亡くなられた母親がどうしているかと、どこの世界でも見通せる神通力で見てみると、お母さんは「餓鬼道」といって、食べるものが食べられない世界で苦しんでいたのです。
目蓮様はびっくりして、お釈迦様にお母さんを救う方法を尋ねられました。そして多くのお坊さんが、安居という雨期の学習期間の修行を終えた七月十五日に、お坊さんたちに心からご馳走して供養されました。その功徳により目蓮様のお母さんは餓鬼道の世界から救われたのです。後にお釈迦様の十大弟子の一人になるほどの立派な子を育てられた、そのお母さんがなぜ餓鬼道に落ちたのでしょうか。

推測ですが、目連様の母親は、自分のしたいことを我慢して、食べたいものも食べずに、ある時は心を鬼にして、我が子を叱責したり、時には手を上げたこともあったでしょう。心を鬼にしなければ子を育てられない親の尊い愛情を、このお経から感じられます。私の命は、心を鬼にして代々子どもを育ててきた先祖からいただいた命であり、まさに今その「命」を生きているのです。

これは金沢の波佐場さんの、お盆によせたリーフレットに書かれていたことなんですが、「n」のばーちゃんというと、なぜかこんなイメージであります。何でですかね、これはさっぱりわからないけれどもなんかイメージです。

今日は浄土真宗の葬式をつとめさせていただいております。今ほども申しましたが、おばあちゃんが大切にした仏壇は浄土真宗のお内仏です。そこには真宗門徒の本尊がある。本尊と言うのは本当に尊い、「大切なもの」ではなく、「大切なことなのだ」と聞いています。実はその大切なことと言うのは南無阿弥陀仏で、南無阿弥陀仏が信心の行者、真宗門徒光として届いた名号南無阿弥陀仏が形になってあんなふうに仏様の形をとって見えるのでございます。

ではその南無阿弥陀仏の教えとは何かと言うと、常識に惑わされないということです。「門徒もの忌みせず」、という言葉がある、忌、いまわしい、世の中の人が忌まわしいと言っても、根拠のないいまわしいものに振り回されることがない、穢れ、と言ってもそうです。それから、善、悪、といってもそうです。自分の常識をも問い返すのが浄土真宗、念仏の教えです。浄土を真とすることを、宗とする、これは扇の要と言う意味があり、中心ということです。浄土を中心にする。

最後に親鸞聖人の言葉を『歎異抄』という書物の中からお伝えします。

(意訳ありで)聖人のおおせには、「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり。そのゆえは、如来の御こころによしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、よきをしりたるにてもあらめ。如来のあしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、あしさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」とこそおおせはそうらいしか。

まとまらない話になりましたがこれでお通夜のお話を終わせていただきます。