「『出離その期なし』より」永代経法話2

三帰依

テーマ 日ごろのこころにては往生かなうべからず
―日常性の闇―
何をよろこんでも何を思っても、感じたことも受け取った事も、すべてが日常の中に埋没してただ過ぎてゆく、一体何を聞いて来たのか。

今配布しましたのは、今度ある勉強会のご案内です。

さて、今日は『出離その期なし』という本よりお話したいと思います。この本は、今年の一月に、和田先生の一周忌の記念として発行されたもので、たくさん買って、何度も読んでいた。欲しい方は売値の1400円の一割引でお分けしています。(10冊以上買うと一割引になりました。)

末法第五の五百年
この世の一切有情の
如来の悲願を信ぜずは
出離その期はなかるべし
正像末和讃

出離というのは、「生死を出る」ということです。「生死をでる」ということは「生死の迷いから解き放たれる」ということです。どうですかね。


これは、なにも真宗に限らず、仏道を志すもの必ず生死を出るということが、必須の課題と申しますか、「仏道とはなんだ」というと、「生死を出る」ことだ。

その生死を出るということは、これは頭で原理的におさえますと、案外すっきりわかるんですね。生死をでるということはどういうことか。ところがこれを実践上の問題として見ますというと、ほとんどそのことが不可能であるという問題がございましょう。

仏教である以上、必ずどのような教えであろうと全て生死を出る。生死にとどまるのでない、生死を出るということが仏教の一番大きな課題で生死を出る道としていろんな道が説かれております。われわれは仏教的な常識で了解しておりますのは、すべて生死を出る道を指示されたものであろうと思いますね。


ところが頭でそのことを考えると、非常にすっきりわかったような気ですけれども、いざ実践的に自ら生死を出ようということになりますと、じつはそのことがまったく不可能であるという問題に突き当たるわけでございますね。

(ここが先生らしいのですが、)これ大変な問題だと思います。私自身がいままで、その重大な意味をあまり感じないできたわけです。軽率な話です。生死をでるといえば「おう、そうかそうか」といってですね。(笑)それで、生死を出るにはどうしたらいいかということを頭の中でいろんなことを論理を組み立てたり、いろいろ思いを凝らしたりしてそのことばっかり考えてきた。ところが出離生死ということが実践的にはまったくそれは不可能だという、その事実を何か棚に上げて今日まで来たような気がするんですね。どうでしょうなぁ。厄介ですね。


出離生死ということが実践的にはまったくそれは不可能

この世の一切の有情は生死をでることが出来ない。この世の一切の有情ですから、仏法を志すものも志さないものも、念仏する者もしない者も、そういうことに関心のあるものないものも全部、生死をでるということは全てのものにとって不可能である。まったくとんでもない言葉だと。

しかし、そういう言葉を私自身が聞き逃してきた。そのことがいままで自分のことだと思いませんでした。私はなにか念仏をしておる、私は何か心がけておるからいつか生死をでることが出来るだろう、という暗黙のうちに自分でそのような感じの中で聞法をし、お念仏を申してきた。

念仏してもしなくてもこの世の一切の有情は生死をでることはできない、
そういうことでしょう、とんでもないことです。私どものこの仏道を行ずるということが全部否定されてしまうような言葉ですね。この世の一切の有情一人も残らず、この時代社会の現実を生きているものはいかなるものも、いのち生きるものは全部、生死をでることはできない。そういうことが言われる。


そうおっしゃってすぐ後に、

そういうことと裏腹のように、これは恵心尼消息の中の言葉ですが、

善き人にも悪しき人にも同じように生死いずべきみち

があるんだと。困りますね。全く正反対です。その意味は一体何なのだろう。

ご存知のように親鸞聖人は9歳の時から29歳まで20年間、京都の比叡山で悪戦苦闘して道を求める、生死出ずべき道を求める。ついに生死出る道が見つからなくて山を下りる。
(私たちで言うと、寺をでる、ということなんだそうです。和田先生は、「根本的矛盾だけれども、寺におったら生死を出ることはできない、その寺に身をゆだねている限り生死をでることができない、とおっしゃった。」

そして山を下りて、(具体的にいうと寺を出て、)吉水へ行く。法然上人のところですね。吉水というのはの当時の仏教の常識からいいますと、仏教の僧伽として認められていない。いろんな人がごちゃごちゃと集まってそんなところに仏教があるなんて誰も思っていなかった。だから法然の念仏の教えは仏教ではない、邪教だ、ということで、法難にまでなるんですね。

そうして吉水へ参って、これもまた恵心尼さまのお手紙を見ますと、「ただ後世のことは、善き人にも悪しき人にも同じように生死いずべきみち(聖典616)」が
ここにあるんだ。念仏申せ。そういうことでございましょう。

これは私たちが考えております、ぬるま湯に入ったような、(なんといいますか)この聞法の喜びとか、励みとかということと、およそ質の違うことでなかろうかと思うわけです。


ここからが面白いんですが、

お葬式に「道俗時衆等」とお経をあげます。

道俗時衆等 (かくほつむじょうしん)おのおの無上心をおこせ(発)ども
生死甚だ(はなはだ) 厭(いと)いがたく、仏法また(欣)ねがいがたし

すべてのもの、道、道を求めているものであろうが、俗であろうが、そういうことに関わりなく現実を生きておる者全て、先ほどから生死を出ることは不可能ということをいうていましたが、なぜか、出たくないんだ。


生死甚だ(はなはだ) 厭(いと)いがたく、仏法また(欣)ねがいがたいということは、生死をでることが大嫌いだということです。

聴聞をしておれば何か生死をでる道に参加しているように錯覚する。けども本音を叩いてみたら、この娑婆世界ほど魅力のあるところはない。生死を出るなんて事は、ただ頭の中で考えただけであって、ほんとうを言えば仏法を聞く、仏法を修行し、生死を出るなんて事は、私は大嫌いだということでしょう。
(休憩)
それには二つの意味があるという。一つは先ほども申しましたように、生死をでることが不可能だ。なぜか。求めれば求めるほど出ることができない。求めないから出れないのでなくて、求めても求めても、求めれば求めるほど、いよいよ生死を出ることができない。


それが「信心一異の諍論」、諍は争うということですね。法然上人のご信心と善信坊の信心が一つか違うかということ、ほとんどの同朋たちがそんなことはないと。(法然上人は一つだとおっしゃったが、どうでしょう)長年苦労して聴聞したものと、昨日や今日はじめて来たものとおのずと違いがあるというふうにみな感じている。そういうわけで、励めば励むほど、善き人にも悪しき人にも同じようにという世界がどこにもない。


もう一つは、「生死を離れたくない」。これはなんども聞きましたから、みなさんにもお伝えした事があるかもしれませんが、


ゴーリキーの『どん底』という戯曲の中のアンナという人のお話なのですが、一生飲んだくれのバクチ打ちの亭主を持って、そうして貧民窟の一番最悪のところで結核を病んで、そこで臨終を迎えねばらないという、生きること全部苦労であったというような女性、アンナの臨終が近い時に、ルカという巡礼者がやって来て、「あなたはたいそう苦労して来た。まるであなたの一生は苦しむための一生だった。しかし、その苦しみはもうしばらくの辛抱で、もうちょっとすれば天国へ召され、再びそのような苦しみを繰り返すことはないだろう」といわれる。すると、そのアンナが「もうちょっとこの苦しんでいてもいいような気がしますわ」と。


ずいぶん後になりまして、そのことが『歎異抄』の「久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだうまれざる安養の浄土はこいしからずそうろうこと、まことに、よくよく煩悩の興盛にそうろうにこそ。なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるときに、かの土へはまいるべきなり。」と『どん底』のアンナの言葉と重なった。


苦悩することに生きる意味があるという、それは現実というものが深い深い意味を持っているということですね。たんに拒否すべきもの、否定すべきものが現実ではない。そのどうにもならん現実が、実は、私の存在そのものの深さを表しておるということではないか。


現実を離れて生死を出ようとする。それは生活の場を離れた観念遊戯に過ぎない。生死を出ると言うことは生死の中にしかない。

苦悩がなくなるということは救いが無くなるということ。救いがなくなる事によってなまの事実に帰る。

私たちが救い救いと言っているのはみな救いの予想であり、観念、イメージである。現実の苦しみと言うのはそういうものを全部無力化してしまう。
我々の救いが何の足しにもならないというのが現実でございます。

その現前の事実に遇った時に、私どもの作ってきたあらゆる救いが木っ端微塵に壊れてしまう。


そのときにはじめて救いから解放される。


私たちは解放と言うと何か苦悩からの解放をすぐ思うんですが、そうでない、最大の問題は救いによってがんじがらめになっているその救いからの解放です。そういうことがいわれるのでないか。

という、ものすごくダイナミックな。和田先生の言葉はすごいなぁと、足元すくわれるわと。今度行く、九月の勉強会も、ずっと和田先生が講師で、懐かしくそして寂しく思います。さて最後に テーマ 日ごろのこころにては往生かなうべからず
―日常性の闇―何をよろこんでも何を思っても、・・・・・・
これが和田先生の言葉に遇ったひとの言葉です。
今日話したことと全然違うように思えないのですが、どうでしょうか。