両堂再建のご苦労

さて昨日から御正忌ということで、また呼んでいただいてたいへんうれしく思っております。昨日も申しましたが、本願寺第二十代達如上人という人は86歳の生涯で四度両堂焼失を目の当たりされています。
本願寺一代は親鸞さん、もっとも親鸞さんは本願寺を建てようとがんばったのではないんですよ。
本願寺を建てたのは覚如さん、本願寺第三代、親鸞聖人の孫に当たります。報恩講で「御伝鈔」が読まれる、「それ、聖人の俗姓は藤原氏、…」というやつですね、あれを書かれた方です。そして八代目が皆さんご存知の蓮如上人、
十二代目は教如上人、この時に東西本願寺が分裂する。江戸時代がはじまる少し前です。
そして、本願寺第二十代達如上人、明治時代になる少し前から明治を生きた人です。

 一度目の焼失、天明八年(1788)、京都大火で東本願寺が焼けた。この大火は京都の市街地の三分の一を焼くという、応仁の乱以来の凄ざまじい災害でした。
 焼失後から十三年後の享和元年(1801)に再建工事は終了する。しかし、その二十二年後文政六年(1823)境内からの失火でまたしても両堂・大門・諸殿等ことごとく焼け落ちてしまいます…その後安政五年(1858)民家からの出火で類焼…元治元年(1864)、禁門の変で焼失…
余談になるかもしれませんが、この時代は元号がころころ変わっています。飢饉などで大勢の人が亡くなる忌まわしいことがあると次の時代に願いをこめて元号を変えた。天明の大火、禁門の変での大火、そんな後は元号が変わったということです。
「火出し本願寺」と揶揄されることもある東本願寺は、焼失のたびに大きくなりました。今日前半はもう少し、本廟再建の歴史を振り返ってみます。私は歴史も地理も嫌いですが、意外と面白い話です。

 天明八年(1788)、京都大火で東本願寺が焼けた。全国の門徒は本山に浄財を送るだけでなく、手伝人足として上京し、再建工事に奉仕しましたが、焼け残った寺内町には上京門徒を収容する設備がなく、まず土地を買い、自分たちの居場所を作り、焼け跡に「御小屋」と称する地方ごとの人足小屋を建てた。これが今も残る諸国詰所つめしょのはじまり。
 この手伝人足は朝夕の勤行、聞法、御示談(談合)の共同生活をしながら作業に励みました。一緒に上京した女性門徒も炊き出しや洗濯、育児、現場の掃除などに精を出しました。詰所の人達が法話を聞き、僧俗合同で作業の段取りを話し合う再建本部として建てられたのが「総会所そうがいしょ」で今でも東本願寺の前の大きな道をはさんで、コンビニエンスストアのローソンの横にあります。京都駅からだと大門より遠いところにあります。(簡単な地図)

 また国元に残った門徒も再建御助成のためのお講を作り、定期的に聞法・談合を繰り返しながら人の輪を広げて資金を寄せ合い、用材の伐りだしや運搬、毛綱や草鞋の供出などに尽力しました。そうした運動の中心が本山会所です。このように御再建とは総会所・諸国詰所地方の本山会所が中核となった、一大信仰運動であり、全国無数のお講の創成とそれに伴う地域信仰生活文化の成立に大きな影響を与えました。
 詰所の生活の魅力は、たびたび墨染めの衣に墨袈裟をつけた第十九代乗如上人が法話や談合に訪れたということです。ご門徒達から歓喜光院様の名で親しまれ、本山焼失の時45歳の働き盛りだった上人は、焼失を自らの不徳の致すところだと深く悔い、宗祖親鸞聖人の墨衣墨袈裟姿に立ち返って、詰所で門徒と寝食をともにし、作業に奉仕する道を選んだ。

 ところがそうした過労が重なって、歓喜光院は、工事が始まって四年目の寛政四年二月に49歳の若さで亡くなってしまいます。そしてしつこく申しております達如上人が13歳で第二十代法主に就任します。達如上人もまた父上人にならって詰所の生活に親しみました。この場合は父上人と逆の意味で親子のような関係がむすばれた。
 現在は法主ほっすは言わないで門首もんしゅという、先頭に立ってお念仏の教えを聞いてくださる方という意味だと思いますが、当時は法主、教主か生き神様くらいに大切に思われておられた方が詰所で門徒と寝食をともにし、作業に奉仕する道を選んだということが、やはりうれしい話です。

 再建工事は焼失後から十三年後の享和元年(1801)に大門の完成をもってようやく終了しました。ところが大門完成二十二年後の文政六年(1823)十一月、境内からの失火でまたしても両堂・大門・諸殿等ことごとく焼け落ちてしまいます。上京した門徒は早速御堂の白州に総会所を建てて再建準備にあたる。
その後天保六年(1835)再建が成就する。二度の再建を果たした達如上人は、67歳で隠居し、息男で30歳になっていた厳如上人に法主の位を譲りました。時は弘化三年(1846)。厳如上人の名号軸も参りに行くご門徒のお内仏によく目にします。

 安政五年(1858)民家からの出火で類焼し、またしても両堂・諸殿(いろいろな建物ですね)、学寮、さらには寺内町六十余町のうちわずか三町を残すのみで、あとは役宅に到るまでことごとく灰になりました。門徒たちはさっそく詰所と総会所を建設して焼け跡の片付けを始めました。諸殿ということを申しましたが、今でも諸殿拝観をします。東本願寺にお手紙を送るときは「〒600-8505京都市下京区烏丸七条上る」と書かねばならないのですが、徳川家康より寄進されたこの地は「六条湿地」と呼ばれ、六条全体が東本願寺の境内で両堂・大門・お庭や諸殿そして寺内町とよばれるいろんな建物があった。現在の諸殿は、大寝殿寝殿造りでつくられています)宮御殿(京都大宮御所の建物の一部で明治天皇より「思召ヲ以テ」(おぼしめしをもって)もらったものである)・白書院・黒書院などがあります。

 再建工事は安政五年(1858)九月始まった。そしてその工事は驚異的なペースではかどって、着工からわずか三年で万延元年(1861)八月、御影堂の遷座式と阿弥陀堂の遷仏式が行われました。現在のものより三メートルほど屋根が高かったというから驚くほかありません。
 どうしてそのようなことが可能かというと、度重なる火災での両堂再建を手伝ったご門徒たちは、すでに大工・左官・建具などの技術を腕を身につけており、真宗の盛んな人口増加地帯では、渡り職人として出稼ぎに出ているものが少なくありませんでした。
 飢饉がおこると口減らしのための間引きということがあったと聞きます。真宗の盛んな地域ほど、「子供は仏様の授かりもの」だという考えによって、堕胎・間引きの悪習がなく、お講の中ではみな平等とされ、家柄による婚姻の規制が緩やかでした。そのため人口が増え、本山に余剰労働力を送ることができたということです。
 そういうことで、とくに北陸は人口当たりの大工の数が全国で最も多い職人地帯になっていたのです。能登田鶴浜町伊久留の宿善寺(畠河等住職)は隅々まで本山御影堂と同じ構造をしているので有名ですが、これは住職の道楽だったのではなく、天明の焼失の際、大門完成まで十三間国に帰らず詰所に住んで作業を続けたこの地方の門徒たちが、後世に技術を伝承するために建てたものと考えられています。このように焼け跡に集まった門徒は素人の集まりではなく、高度な技術を持った職人集団でした。
 その三年後、ありえないですね、元治元年(1864)、「禁門の変」で焼失、したんです。はぁー、昔の人は苦労したですね、高度な技術を持った職人集団とはいえ莫大な費用がかかっているのは言うまでもないことです。それでは、少し休憩します。

 さて「火出し本願寺」と揶揄されることもあった東本願寺は、焼失のたびに大きくなった。起工明治13年(1880)から15年の歳月を経て明治28年(1895)に落慶した現在の建物は、出火の際は「琵琶湖の水をひく」防火システムが整っている。ということで、先達のご苦労を申し上げたらきりがないくらいなのかもしれませんので、これでおきます。
 昨日も申しましたが、この度全国のご門徒が、住職が今回の御修復のために苦労しています。以前と違って人足をだすということはないけれど、「ない中で工面して」という気持ちは皆さんのところにも多少なりともあると思います。今回、当寺では一月1200円ずつ、一年にして13200円寺の維持費として積み立てていただいているものが、最近瓦を新しく葺き替えたし、当面使うことがないからということで、維持費の中から両堂御修復の為のご依頼金約180万円を、ご門徒約50軒、一軒あたり三万、積み立ての中から払うということに門徒役員会で決まりました。

私はああよかったなと、行った事もない本山に、何のためにお金を払わんなん、と、私なら思うかもしれないし、思ってもおかしもないとも思います。ご門徒は、月忌、祠堂経、相続講、寺維持費と、寺をもっていくということは本当にたいへんなことだなぁと、みなさんよくがんばってくださっている、ありがたいことだと母とよく申しているのですが、その上に「本山御修復のためのお金」をお願いするのは寺側も辛い、全国のお寺、お隣のお寺もそうだと思いますが、ご門徒にお願いして、皆で苦労しているというのが現状だと思います。だから、「ああ、頼まんでよくなってよかった、自利利他円満だ」と思ったのが本音です。

 ところがですね、話を蒸し返して、やめにしようというわけでは決してないですが、当寺は門徒50軒というても、村の人は違います、村にはお講もあるし月忌参りもある、ところが他所では、本山が東本願寺やら西本願寺やら浄土宗やらなんもわからなくなっているということが若い衆のところで今、現にあります。本山の御修復というのは度々あるわけでない、100年に一回の、本山とは何か、先達が血の滲むような努力をして残してきた浄土真宗の教えとは何か、親鸞聖人の教えとは何か、大金を払うということで痛みを伴って痛み分けして、確認する大切な、今この時が大切な機会だった。ところが、私が住職が、ご門徒にお願いすることをしないで、頭をさげないでよかったことに「ああ、よかったよかった、自利利他円満だ」と大事な機会を失ってしまったのかもしれないな、そういうようなことも思っています。

 自利利他円満ではなくて、維持費の中から本山御修復のご依頼金を支払うということで問題も起こってきています。先日、門徒総代の一人が「瓦懇志は一律にするので、これまで支払った人のリストを出してほしいといっていたのだが、どうなった、住職に念を押してほしい」「これまで払った人に返す」「もう決まったことだから」などと言ってきた。「なんかへんやね」と私は一言、言った。
寄付はそれぞれの気持ちだと思う。リストを公表するのはプライバシーの侵害だと思う。そして、自分がこれまで支払ったお金について「一律にするために返してほしい」というのはなんだかおかしな話。そんな自分の価値観に自信が持てなくて、宗務所に電話した。「以前支払った寄付のお金を返した」前例はないという。リストを出してほしいといわれたその方は組門徒会長をされていて、さあこれから瓦懇志を呼びかけようということで、自分が先頭切って10万金沢の教務所に支払ったのだと思う。それは本当に頭の下がるところです。ところが、維持費の中から出すことになった。

寺としては返せといわれて嫌だという気もないけれど、ちょっとまってくれ、10万の記念品をもらっているはずだ。1万の記念品と3万の記念品と10万の記念品は違うのか、それを確かめたかった。宗務所に電話したら「御修復のための瓦懇志の事務局」に電話がつながれた。担当の方はうろたえる私の話をよく聞いてくれて、「違います」とおっしゃって、「もし返金ということであれば、その記念品も返していただくのがよろしいかと思います。また、領収書もありますから、きりなおす、ということもあります。とにかくその方が本当に支払われたのか、こちらのほうで確認し、後ほどご連絡いたします。」と、大変親切に対応していただいて、うれしかった。5分ほど後に折り返しの電話がかかった。気の毒がっておられることが伝わった。それは電話に出られた方がご苦労されている証拠だと思った。すごくこころ強く思った。

いろいろ考えた。役員会の中で決まったこととはいえ、個人の過去の寄付について返金することを維持費として集めているお金から払うとすれば、皆さんに確認する必要があるはずだ。大体「これまでこんなことになるなんて知らないで、本山に上山したいい機会だから寄付しよう、と思って支払った金を返して欲しい」という人が大勢いるとは考えられない。そして実は払った人も少ない。

 はじめは「返せばいい」と面倒なことをさけようとしていた住職も、私の話を聞いてくれるになり、「名前を公表する、リストアップするようにいわれていたけど、渡す気ははじめからなかったよ」「俺も払ったお金を返せなんてなんかおかしいなと思っていた」と言ってくれました。
 一万円寄付したら、希望者は瓦にレーザーで書いた名前をそのまま記名されるんですが、それに息子の名前を書いて、自分は名乗りもしないで、所属寺の光明寺が金沢教区第11組であることなんて知らないで、懇志をした人を私は知っています。先ほど申しましたように光明寺は一軒当たり三万支払うことになったので、一軒三枚、記名の札を配りました。先日その方が、その三枚の札を届けてくれて、「息子の名前はもう本山で書いてきたから、私の名前と、死んだばあちゃんとじいちゃんの名前を書いてきたよ」とおっしゃていました。

 そういうことで今回のことでまず痛感したのがつくづく自分は卑下慢だと思うだから自分の価値観を信用できなくて本山に半泣きで問い合わせた。
反対の言葉でいうと増上慢増上慢は高い鼻がぽきんと折れることがある。でも卑下慢の自分を蔑むこころはなかなか手強い。そのことについて「あんたはまず自分がおかしいのかなと考える…」と親しい人に指摘された。
 またご門徒には「供養心が無いという不信心者には却下の即決でよろしいかと(笑)」というコメントもいただいた。
正直、「却下の即決」したいです。でも、やっぱりそんなわけにはいかないんですね、これこそがんばってしっかり話していかんなん、寄付やお布施、供養も含めてなんだかわからくなっているのは、寺にいるものの怠慢により起こって来ている問題だと受け止めています。そしてこの「寄付返金要求のひともめ」がまた、尊くも逆縁となり、今回、「本山とは何か」、「これまでの御修復の苦労を偲ぶ」ことをはじめとする、「御正忌」のお話になりました。

 太田浩史先生の「砺波詰所の歴史と現状」という資料を参考にお話しました。この方の書いた物には熱がある。今回久しぶりに読み返してみたけれど、やっぱりこの方の話が大好きです。蓮如上人500回御遠忌のときに、何人かの歴史に明るい人のお話を聞きました。私のような算数も理科も社会も歴史も嫌いなものは年号聞いただけで退屈になる。こころが揺らがない、揺さぶられることはないんです。
 その違いはなんなのか、初めてお話を聞いたときからぼんやりと考え続けていた。太田さんのお話は、歴史でなくて法話です。南無阿弥陀仏が中心にある。だから恩徳讃嘆がある。そして慙愧のこころよりおこる「ひたむきさ」を感ずる。
歴史をたずねて、先達の願いに触れるのでなく、
先達の願いにより今の今まで続いていることに、はっと気付いたとき、何が願われているんだと、歴史に問い、そこで出会う。
だから、あまり興味のない人にはただの歴史なんだけれども、でも実はそこから始まることもあると思っています。
 本当に今、本山の御修復のために全国のご門徒と住職ががんばっています。私が卑下慢で、自分を蔑むこころはなかなか手強いけれどふんばらなければならないこともある。今回の御修復は、中身がほとんどすっからかんな寺壇制度の大切なきっかけになるはず。先達が命がけで残した「法義相続」の願いを末寺でしっかり伝えたい、そんな願いから二日間お時間をいただきました。
最後に恩徳讃を唱和します。
御正忌06.12.18(「尼僧、親鸞聖人の教えと日暮之所感」より転送)