「優しい子」に
このところ(もうすぐ)五歳の娘は毎朝ママに激怒されている。
昨日はトイレ争いに負けたママ、先に入った娘がトイレットペーパーを使い切ったので、「ティシュでいいから持ってきてね」といったのに「寒いからやだー」といって、持ってこないでストーブにあたっていた。「ふざけんな!!」と延々と説教、「人間は支えあって生きているんだ」「なぜ困っている人を無視するんだ」「自分のしたいことを後回しにしても人から頼まれたことができるかどうか、そんなことで人間の価値は決まるんだよ!」「そもそもあんたのお世話の為にママは朝起きているんだよ!」「じゃあ、ママはお世話はしないわ」ということで、朝ごはんなし。見かねたあーちゃん(母)が豆腐を食べさせていた。
今朝は「あ、ごめんカップスープのお湯入れすぎたわ」といったら、「あーあー、ちょっとがよかったのにぃぃ」といわれ、「それなら、食べるな」と叱られた。「相手の気持ちになって考えなさい」「お世話してもらっているんだよ、自分で出来ないんでしょ」「すごく自分勝手なことが多いよ」「箸さえ自分で持ってこないよね」
叱りながらもいつも迷っている。カップスープのお湯は私も少なめが好きである。トイレットペーパーがなくてもいのちに別状はないし、箸はいつもママが準備するのを忘れる。相手が一方的に「悪い」と言い切れるようなことではない。小学生や中学生が母親と話している姿はまたちょっと違った雰囲気で、「よくあんないいかたをされて親が怒らないものだ」と驚いたこともあった、これとは次元が違うと思う。親も子とともに育つというか、とにかくこれはもうすぐ五歳の(神経質な)ママの悩みである。
親として叱っている自分がよくわかる。願っているのは「相手の気持ちになって考える」「困っている人がいたら(自分の用事を後回しにしても)手をかしてあげる」そんなことが大事で、できない娘は「いい子でない、優しくない子」だとため息が出る、そんな自分をいちいち憂う。
実は「いい子でなくていい、優しくない子でも愛している」と思う。社会に役立つ人になってほしいとか、あんまり思えない。まして誰に対しても優しい人になんかなりたくてもなかなかなれないし、それができないからといってダメなやつの烙印を押すのはおかしい。
毎日の 些細な戸惑いは、 子育て担当である女性は一人腹におさめることが多い。 パートナーである男性はそれをいちいち聞く暇はないだろう。 いちいち聞いてもらおうとするのもおかしいと思う。そんな欲求は苦悩のもとだから望まない。 しかも、話したことで、否定なんかされようものなら、「ではあなたやってください(怒)」になりかねない。 一人戸惑いながら抱えていくことが決して悪循環だとは思わない、そうやって母になっていくのだと思う。でもたまに語れる場があるといいな。
よしあしの 文字をも しらぬ ひとはみな
まことの こころ なりけるを
善悪の字 しりがおは
おおそらごとの かたちなり是非 しらず 邪正 もわかぬ
このみ なり
小慈小悲も なけれども
名利に 人師を このむなり
(正像末和讃 自然法爾章)
善し悪しの 文字を 知らぬ・知らない 人は皆 真の こころ なりける・である が
善悪の字 知り顔は 大そらごと・嘘、偽り の 形なり
是か非か 邪か正しいか 分けることが出来ない この身 です
小慈小悲・人への慈しみの気持ち、思いやりの心、悲しみをいたわる気持ちがない
人にどう思われるか、どうしたら人に勝てるか、どうしたら自分の利益をうることが出来るかを求め、人から慕われることを 好んでいる (悲嘆)