御正忌法話

本日はようこそお参りくださいました。今日は「御正忌」ということで、また呼んでいただきました。ご住職に声をかけていただいて甘えて、またへたくそながらもこの場に立たせていただきますことを本当にうれしく思います。
昨日は自坊の「御正忌」で、少し前から花立てたり掃除したりの準備と、当日のお勤め、法話をがんばってしました。ここだけの話ですが、収入は参ってくれた人のおみやかし、1400円です。村では参ってくれた方にもちを配ります。参られる方にのためにもち米にして三升、だいたい6400円の、こんだけくらいの小さいもち準備したので、ちょっと笑いましたが、まあそんなことです。
それで昨日はお勤めをして「御正忌」の御文をいただいて、法話のときに、まず「御正忌」とは何かというお話をしました。思えば二年前に初めて「御正忌にお話しする」という機会をご住職さんのほうからいただきまして、御正忌とはなにかということを、あらためて勉強する、いつも気になる、ということになったのでありました。

うちで一番書が達(た)つのは母です。というか、他の人は筆を持つことができません。お母さんがご案内を書いてくれた、「七昼夜厳修」、これを何箇所か私が貼りました。お隣のお寺は「御七夜厳修」と書かれていました。私が案内を看板に張りに行って、お隣のお寺の案内を外したので、よく覚えています。これはおんなじことです。
本山では御正忌報恩講が行われる、これは11月21日から28日、七日間の昼夜勤められる。末寺は報恩講をしますね、末寺というけれど、これは当寺が小さいからそう呼ぶんでないんですよ、ダイボ(大坊?)も末寺、本山東本願寺の末寺なんです。本山の精神をそのまま、お堂も、いうなれば縮小版のようなのが寺です。この七日間の昼夜ということについて親鸞聖人が11月21日に倒れて、床に付して、一週間、他の事はいわないで、ただ念仏申した、「世事をまじえず、念仏のみ」という言葉があったかとおもいます。そういうことから来ているのかな、とも思っています。

末寺の報恩講は、正式には引上会(いんじょうえ)といいまして、本山の先にする。在家では報恩講をお取り越しという、これは本山の後にするということです。先に自坊で報恩講を勤めて本山に参りに行く、そういうことが当たり前だったんでしょうね、そして、あらためて自分のところで御正忌をする、このねんごろさはいったいなんなのかなと、答えはないのですが、問い続けています。

というのは12月のはじめに町の仏教会の追悼会が行われました。この中におられる方は行ったことがある方ばかりだと思います。家族の死におうたことは一度もないという方はおられないはずです。私は父が亡くなってから毎年僧侶としてお参りに行っています。会場は老人センターですね、この前ふと思ったんです。お内仏があるんですね、浄土真宗のお内仏があたりまえのようにある。公民館もそうでしょ、(村の名)UもKもYもみんなあります。公民館で葬式をするから、そうかもしれません、でも考えて見てください、公民館は字のとおり公の場です。老人センターにしてもそうです。そこに真宗のお内仏がある、これを土徳というのだと思います。お念仏の教えにおうてほしいという先達の願いがあるんです。
私の日常生活は念仏も如来親鸞も出てこないような日暮ですが、報恩講とて御正忌してとねんごろに、その願いとはなにか、答えはないのですが、そういうことを悶々と考える日々です。

さてその本山は今ご修復の真っ最中です。完成は2011年、今2006年、もうすぐ2007年ですから、後4年ということでしょうね、真宗本廟東本願寺の御影堂は世界最大の木造建築物であります。木造でないのはたくさんあるんですよ、ローマなんかに行ったらごろごろにあります。木造なんですね、高さ38m・正面76m・側面58m(図)・畳数927枚・瓦数175967枚・堂内の柱90本、まあ、一言で言えば大きいということですね。こんなことをお伝えしているんですよ、今御修復していますから今度の瓦は何枚になるんでしょうね。大きいお堂に大きな屋根、この瓦と瓦の間のどろの重みで柱が曲がったり裂けたり恐ろしいことになっていた。そこで最近の技術でこの瓦の間の重たい重たい土を無くしてうまいこととめる、などそういう工事をしています。

現在の両堂は明治13年(1880)釿始式きんししきが行われ、明治27年に完成したものである。明治28年4月に完成しました、という資料もあるが、落慶法要が行われたと推測する。完成までに15年かかったということですね。
その大きなお堂はいますっぽり覆われています。 中の様子はお配りした同朋新聞(11月号)をご覧ください。私は先月の半ばに本山の仕事へ行ってきました。以前にも申したことがあると思いますが、同朋会館で全国から奉仕団にこられる方と一緒に聴聞させていただく仕事をさせてもらっています。現在ご修復中なので、ご修復の現場を視察することを希望される方が多く、こうしてヘルメットをかぶってね「真宗本廟奉仕団」のたすきをかけてね、私も一緒に周っています。少し前までは使える瓦を洗うということも奉仕団の方と一緒にしました。(今はもう洗ってしまったということです。)

さてですね、私のおばあちゃんは、時代劇と、なんか知らんけど、横溝正史とか怪盗ルパンとかおどろおどろしいのが好きで、小さいころからよく目にしたものです。みなさんは「ラフカディオハーン」という名をご存知ですか、日本名は「小泉八雲」、そして書かれたのがみなさんご存知の「怪談」「黒猫」などというおどろおどろしい物語をはじめとする書物、ラフカディオハーンというのですから、外人さんですね、その方は大変日本を愛し、日本語で書かれたわけですね。おばあちゃんが好きだから私も関心をもって本を見るわけです。
その日本好きのラフカディオハーンが、明治28年に両堂が完成した、その落慶式に行ってね、その時の日記がこの「日本の心」という書物の中に書かれています。

四月二十一日京都にて

 日本全国の宗教的建築の中でも最も壮大な例といえる二つの建物が最近完成した。これで寺の町京都には、古都一千年の歴史を振り返っても恐らく右に出るもののない建造物が二つ新たに加わったのである。その一つは政府が贈ったもの、もう一つは庶民の力によるものである。
 政府が造営したのは大極殿といい、京都を都に定めた第五十一代(ママ)桓武天皇の大祭りを記念して建てられた。(中略・平安神宮のこと)
 一方、庶民が京都の都に贈ったのは、さらに壮大な建物、すなわち真宗の荘厳な寺である東本願寺である。完成までに十七年の歳月と八百万ドルの費用を費やしたと述べれば、西洋の読者にもその威容がいくらか想像できるのではなかろうか。単に面積のみを比較するなら、これほど費用のかからない日本の建物にももっと広いものがある。だが、日本の寺院建築に通じた人であれば、高さ百二十七フィート、奥行き百九十二フィート、間口二百フィート以上もある寺を建てるのがどんなに難しいか、容易に理解できる。
(中略)
落慶式を見るために十万人を越す農民が集まった。彼らが大勢で広大な中庭に敷き詰められた筵(むしろ・ござみたいなもの)に座って待っているのを
(中断・たくさんでお堂にすわれなくて白州にござ敷いて座っておられたんやね、)
私は午後三時頃に見たが、そこはまるで人の海であった。しかも、式の始まる午後七時まで、この大群衆は影一つない日なたで飲食物も口にせずにひたすら待つのである。庭の一角に見慣れぬ白い帽子と白い服をつけた二十人ほどの若い女性の一団が見えたので、
(中断・なにかわかりましたか、「看護婦さん」そうですね、)
近くの人に聞いたら、教えてくれたと、これだけたくさんの人が何時間も待つから具合の悪くなる人もいる、看護婦さんがああして待機している、担架もそれを運ぶ人手の用意もありますし、お医者さんも大勢控えておられますよ
 人々の信仰心と忍耐力は大したものだと私は感服した。もっとも農民たちがこの立派な寺に愛着を感じるのも当然で、これは直接的にも間接的にも彼らの力で建てられた建物である。建設のための実際の労働の少なからぬ部分が無償の奉仕によって行われたし、屋根に使う巨大な梁を遠い山の斜面から京都まで引いて来るのには、信徒の女性達の髪をより合わせた太い綱が用いられた。今も寺に保存されているその綱の一本を見ると、長さが三百六十フィート以上、直径がほぼ三十インチもある。
(中略)日本人がこれから入っていかねばならない、さらに広く厳しい世界での試練に備えて日本人の大きな助けとなるであろう。
「日本の心」小泉八雲講談社学術文庫 より

(休憩)
ラフカディオハーンは「庶民からの贈り物」というふうに表現したわけですが、真宗本廟は全国の門徒によって建てられました。資材や資金はいうまでもないですが、「建設のための実際の労働の少なからぬ部分が無償の奉仕によって行われた」ということが書かれてありますが、大工もみなご門徒でした。
禁門の変で焼け野原になったところに全国のご門徒が地方ごとの人足小屋にんそくごやである「詰所つめしょ」に寝泊りし、というより、「生活」した。そこでは朝勤行し仕事して聞法する、夜には談合する、談合というのはお念仏の教えをどう聞いているか互いに語り合う、示談です。その聞法・談合の場が総会所、で今もあります。私のじいちゃんは総会所でお話にさせていただいておりました。今も365日お念仏の教えが聞ける場です。
そういうことで、村のごそーっと若者まるまる何年も本山奉仕のために「手伝人足」として詰所で生活して建った東本願寺です。農村は残された年寄りや女たちが大黒柱や働き手を本山に送って血のにじむ思いで支えたに違いない。五年くらいときいたような気がしますが、定かではありません、「天明の焼失の際、大門完成まで十三年帰らず詰所に住んで…」という資料はあります。

このご門徒たちは手伝人足として生活することで建築の技術を得て、勤行・聞法・談合との生活ということで、諸国へ帰って全国無数のお講のリーダー的存在として、地域信仰生活文化の形成に大きな影響を与えたということです。
今ほど申しました、天明の焼失ということについては明日、もう少し勉強して申し上げます。

先ほど、お堂はいますっぽり覆われているということを申しました。明治の再建は「禁門の変」というのがあって明治の5年前に京都が焼け野原になった、時のご門首は厳如上人で、父が達如上人です。光明寺に御絵像があります、以前もお話しましたことがあるかもしれませんが、余地の在所も古い脇掛は「帰命盡(じん・尽くす)十方無碍光如来、達如」と書かれているものがたくさんあります、厳如上人も参っているとたまに見ます。各寺にご門徒にご依頼をされたのでしょうね、募財をしたわけです、お礼にいただいた名号軸ですね、達如上人は86歳の生涯で四度両堂焼失を目の当たりにした。どんなに辛かったでしょうかと涙ぐんでしまいます。

今回は焼け野原になったわけではないし、使えるものは使わせていただくという願いがあるのだと思いますが、うまいこと考えるものだなぁと感心して見ています。昔は今のようなクレーンもブルもありませんね。
資材となる大きな木はあたりまえですが、町にはない山にあります。山奥から木を切り出して水路で京都まで人の手で運ぶわけです。
山では雪を利用して、大きな木をそりに載せ、人の髪の毛に麻を編みこんで作った太い太い毛綱を使って、それでくくって、雪山をすべって降りるんですね、
下敷きになって大勢の方の命が失われたということを聞いています。

人の髪の毛綱ですから、私たち女性の髪が悪い表現で言うと奪われたということですね、時は明治の時代です。現代のようなショートカットの女性なんてそういないでしょう、いい年頃の娘がばっさり髪を落とす。いい年頃でなくたって今私に本山のために髪をと言われても、やーわいね、お断りしたいようなものです。恐ろしい姑さんが寝ている嫁の髪を切って…という話も聞いたことがあります。毛綱は阿弥陀如来親鸞聖人に対する報謝の気持ちを黒髪を切るという抽象的な行為で表したものです、明治十二年五月十二日、両堂再建の発示が法主から下されたことが、全国に伝達されると、年内のうちに早速北陸・東北を中心に毛綱の志納がはじまったということです。
小泉八雲は「今も寺に保存されているその綱の一本を見ると、長さが三百六十フィート(1フィート約30cm)以上、直径がほぼ三十インチ(1インチ2.54cm)もある。」と書いていますが、今も本山にあるあの毛綱のことなんでしょうかね。ガラスケースに入っているの見たことありますか。

毛綱の志納は最終的に53本献納され、内訳が残っている。越中16、越後15、羽後(うご・秋田県山形県にまたがる)10、讃岐4、越前3、播磨(兵庫県)3、磐城(いわき・福島県宮城県にまたがる)1、豊後(ぶんご・大分県)1となっており、越中が全体の三割にのぼる。これは砺波門徒の意気込みを示すものでもありますが、巨材が切り出された地方に数が集中していることから、現地の切り出し現場で必要に応じて作られ、切り出しと運搬が終わると用材とともに本山の工事現場に集められたものと考えられています。

これは「両堂御修復瓦懇志」の記念品で、明治の再建当時の絵が書かれています。(見せる)
これは門ですね。先ほど申しましたように周りに詰所があり、空への大きな道のようなそびえたつつ道を作り、人の道を作って、木材を人の手で運んで建築した様子です。
本山には写真もあります。さて明治の再建の全国門徒のご苦労を挙げてはきりがないことですので、続きは明日にします。

先月担当した奉仕団というのは北海道から来られた方々でした。御修復のためのご依頼金を完納したという記念に住職が奉仕団を呼びかけたところ、なんと30人近くの参加がありました。聞くところによると11月の半ばは毎年北海道から来られる方が多いということです。少し考えて見てください、私が京都へ行くときは往復15000円以内です。三時間もあれば家から親鸞様のお膝元へ行くことは可能なんです。ところが北海道の方は飛行機で来ます。北海道を朝出て昼本願寺に着くということはない、本山に昼前に行こうと思ったらどこかで前泊する必要があるんです。必要経費は海外旅行と変わらないくらいだと推測します。「本山へいこう、親鸞さんに会いに行こう」自分の日暮を考えたら北海道の方々の熱い思いに今更ながら涙が出ます。
その座談会で一人の女性が語りました。「私たちは、ない中で工面して御修復のためのお金を払いました。今回上山して、この本山の大きさに驚いて、昔の人がご苦労をされて残してくださったものに立って、ああ、私もこのお堂を後世の人に残したい、残すことで念仏の教えを伝えたい、そういうことを思いました、上山してよかったなと、本当に思います」その言葉に本当に感激しました。彼女はまだ若い、もうすぐ定年になる私の母より少し上という年齢の方でした。誰から教わったわけでない、自然に口から出た言葉なんです。

全国のご門徒が、住職が今回の御修復のために苦労しています。以前と違って人足をだすということはないけれど、「ない中で工面して」という気持ちは皆さんのところにも多少なりともあると思います。
 実のところ当寺門徒50軒というても、本山が東本願寺やら西本願寺やら浄土宗やらなんもわからなくなっているということが若い衆のところで今、現にあります。
本山の御修復というのは度々あるわけでない、100年に一回のことです。
なんもわけわからなくなっている今こそ、本山とは何か、先達が血の滲むような努力をして残してきた浄土真宗の教えとは何か、親鸞聖人の教えとは何か、大金を払うということで痛みを伴って痛み分けして、確認する大切な、今この時が大切な機会なんだと思っています。
そういうことで、今日は「お七夜」とは何か、そして瓦懇志ということで、先達からかけられている願いを考えるきっかけになれたらいいなと、お話させていただきました。最後に恩徳讃を唱和します。
資料(『日本の心』「四月二十一日京都にて」小泉八雲講談社学術文庫) 同朋新聞11月号
御正忌06.12.17(「尼僧、親鸞聖人の教えと日暮之所感」より転送)