関心のない私を見捨てることなく、如来は呼びかけ続けておられる。

人前で話す機会がある私は、何も話せないと思うことが多々あります。私なんか何も話すことがない、そうよく思うのです。今日もお講で何を話せばいいのか悶々としているのですが、お昼頃NHKをみておりました。強迫性障害の特集をしていました。

強迫神経症強迫性障害)とは、簡単にいうと「わかっちゃいるけどやめられない症候群」です。自分でも不合理だと思いながら何回も繰り返すので、本人にとっては大変つらい病気です。
 よくみられるものは、トイレに入った後何回も手を洗う、ドアのカギをかけたかどうか、ガス栓をしめたかどうか何回も確認するというものです。本来これらの行為は安全を確保するために誰でも行いますが、それが何回も何十回も確認しないと気がすまない状態になると社会的に支障をきたすことになり、何らかの治療が必要となります。
参考http://www.fuanclinic.com/byouki/vol_34c.htm

みていてふと思ったのは、「自分はだめだ」と思うのだと。人間ですから、強迫性障害と言ってもその人その人ですが、「自分はだめだ」というのが共通するのだそうです。そうであれば私も同じだなと。そして、何もしたくなくなり、どこにもいきたくなり、生きづらくなるというのです。

刻一刻と時間が過ぎて、いろんな事件が起きて、震災から今月でまだ4カ月、原発事故で自分自身大騒ぎしていたのが泡が消えるように五月半ばで終わってから原発もどこ吹く風、津波でたくさんの人が亡くなったことさえ忘れそうです。今日お話ししなければならないと思って、ニュースを見ていたら、震災避難所でボランティアに乱暴=強姦致傷容疑、男逮捕―宮城県警。というのがありました。窃盗や盗難、強姦ということも起ってきてニュースになっている。今日は関心がいったけれども、悲しいことにニュースを見ることもなかった。関心がない。
今ほど関心がないことが悲しいと申しましたが、仏教ではこれは一闡提という。最も罪が深い。逆らうものはまだ救いようがある。これ五逆誹法謗法の者といいますが、関心のないものはとりつくしまがない。こんな時に念仏の教えはいるか。けれどもそこに、おかしなことをいうようですが、

大悲ものうきことなく、我を照らしたもう 『正信偈

関心のない私を見捨てることなく、如来は呼びかけ続けておられる。と聞いてきた。本願とは待つということである。死んでからお迎えに来るのでない、今、待たれている身であるとひっくり返る。地獄に生きる身の、念仏一つと方向の定まることが待たれている。親鸞聖人が亡くなられて750年、ずっと待たれている。私が念仏申す身になることを待たれている、それはただ念仏なのであります。 お講法話2011.7.4.