老少男女おおくのひとびとのしにあいて候うらんことこそ、あわれにそうらえ

さて、親鸞聖人のお手紙を紹介します。一か所わかりににくいところがあるので、先に手がかりになるであろう和歌を書きます。
よしあしの文字をもしらぬひとはみな  まことのこころなりけるを
善悪の字しりがおは  おおそらごとのかたちなり  
是非しらず邪正もわかぬ  このみなり
小慈小悲もなけれども 名利に人師をこのむなり


この手紙は聖人八十八歳の時に 乗信御房という方にあてたものです。手紙書かれている日付の【文応元年】は大飢饉の歳であったと伝えられていて、関東で多くの人々が飢餓や疫病のために死亡したと考えられます。

(六)なによりも、こぞことし、老少男女おおくのひとびとのしにあいて候うらんことこそ、あわれにそうらえ。

いずれの歳にもまして、昨年と今年、老若男女多くのの人々が相次いでなくなったことは、誠にいたわしいことです。

ただし、生死無常のことわり、くわしく如来のときおかせおわしましてそうろううえは、おどろきおぼしめすべからずそうろう。

けれども、生死無常の道理は、詳しく如来の時おかれているところでありますから、(悲しいことだけれども)驚くことではない。

まず、私においては、臨終の善悪を申しません。信心決定のひとは、うたがいなければ、正定聚に住することにて候うなり (信心の定まった人は疑いのこころが無いのだから、必ず浄土に生まれる身となっているのです) 。さればこそ、愚痴無智のひとも終りもめでたく候え。
如来の御はからいにて往生すると、ひとびとにもうされてこられたことは、すこしもたがわず候うなり(間違いではない)。如来の御はからいにて往生する。としごろ、おのおのにもうし候いしこと、たがわずこそ候え(年来、私がこのように人々に申して来たことと違わない、同じである)。
かまえて、学生沙汰せさせたまい候わで、往生をとげさせたまい候うべし。
決して、学者ぶって勉強したといって、議論するようなことをしないで、浄土に生まれることを成し遂げてください。


法然聖人は、「浄土宗のひとは愚者になりて往生す」と候いしことを、たしかにうけたまわり候いしうえに、ものもおぼえぬあさましき人々のまいりたるを御覧じては、往生必定すべしとてえませたまいしをみまいらせ候いき。
字を読み書きすることもできない、(和歌参照)あさましいともいわれる人々、(それはどういうことか)その日その日の暮らしに精一杯、戦後に育った私には想像することもできない、豊かな日本では考えられない、茶碗一杯の米を食べることがままならない、その日その日生きるのに精一杯、その方たちが参られるのを見ては、「必ず往生する、浄土に生まれる」と笑っておっしゃった。

ふみざたして、さかさかしきひとのまいりたるをば、往生はいかがあらんずらんと、たしかにうけたまわりき。
逆に、学問して、賢そうな人が参ると、往生するであろうか、とおっしゃた事を確かに聞いた。いまにいたるまでおもいあわせられ候うなり(今になって思う)。

ひとびとにすかされさせたまわで、御信心たじろかせたまわずして、おのおの御往生候うべきなり。(いろんな人の言葉にだまされたり、御信心を後戻りさせたりすることなく、それぞれ往生さしてもらわんなん。)

ただし、ひとにすかされたまい候わずとも、信心のさだまらぬひとは、正定聚に住したまわずして、うかれたまいたるひとなり。(もっとも、人にだまされなくても、信心の定まらない人は浄土に生まれる身とはなっていない人で、浮かれている人である)(有頂天) 
乗信房にかようにもうしそうろうようを、ひとびとにももうされ候うべし。あなかしこ、あなかしこ。
文応元年十一月十三日  善信八十八歳
乗信御房(じょうしんおんぼう)

『末燈鈔』六 法話原稿より