レジメ「阿弥陀経」の「応当」と「当」

阿弥陀経の中に、いくつか「当」があるが、書き下し文にする場合、どのようにするのがいいだろうか。また「応当」(まさに)「当」(まさに)の違いや、応当発願、当信是称讃、如等皆当、当発願、若当生、当知我於 などの「当」の意味の違いはあるか。
一番わからないのは、 已發願。今發願。當發願。 若已生。若今生。若當生。 應當發願生彼國土 である。

舍利弗。若有人已發願。今發願。當發願。欲生阿彌陀佛國者。是諸人等。皆得不退轉於阿耨多羅三藐三菩提。於彼國土若已生。若今生。若當生。是故舍利弗。諸善男子善女人。若有信者。應當發願生彼國土

真宗大谷派の「真宗聖典」では、以下のカッコ内のようにふりかながふられる。
舎利弗もし人ありて、已(すで)に願を発(おこ)し・今(いま)願を発(おこ)し・当(とう)に願を発(おこ)して、阿弥陀仏国(あみだぶっこく)に生まれんと欲(おも)わん者は、このもろもろの人等(ひとら)、みな阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を退転せざることを得て、かの国土において、もしは已(すで)に生じ・もしは今(いま)生じ・もしは当(とう)に生ぜん。このゆえに舎利弗、もろもろの善男子・善女人、もし信あらん者は、応当(まさ)に願を発(おこ)してかの国土に生ずべし。
レジメを作って質問したところ、
まず「応当」という言葉は、「応」「当」も同じく「まさに」という意味がある。二度同じ言葉を使うことで意味を強めるはたらきがあるということ。「応」「当」も同じ意味だというのは聞いたことがあった。納得。
次に、已(すで)に生じ・もしは今(いま)生じ・もしは当(とう)に生ぜん の、 とうに生ぜん という、ふりがなに疑問があったのだが、近代教学以前の江戸の教学に「当来浄土」という言葉があり、この当来は、未来に近いけれども、未来の未という字と違って、もっと確実な「まさに生まれる」表現なのであるという。わかったつもりだったが、うまく表現できないが、「已・今・当」は「過去・現在・未来」だと思っていたが、未来なんてのんびりしたものでなく、もっと確実な「まさにこれから生まれる」のだと聞いた気がする。
疑問を起こしてくださったことにありがとう。共に考えてくださった方々にありがとう。