報恩講でおろおろ話したこと

今日から○○寺報恩講がはじまりました。皆さんようこそお参りくださいました。お足もとの悪い中皆さんにこうして参っていただいていることを心から感謝申し上げます。
それではなぜ、こんな足元の悪い日にここにいるか。いろんな理由はあるのに、なかなかその答えが出てこないものではないでしょうか。ひとついえるのは、皆悲しみを縁としてここに集うている。神社が近くにありますが、神社の神道では、死を穢れとして、寄せつけないように願ったりお祓いしたりするように思っています。それが良いだの悪いだのということではなく、浄土真宗の教えは、大切な人の死から関係が開かれていくような教えだと思います。ちょっとまってくれと、お通夜の話ならわかる、まあ、法事でもわかる、でも報恩講はどうだと。講は集まりということですね。報恩というのは、いつも歌う恩徳讃にあるように、
如来大悲の恩徳は  身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も  ほねをくだきても謝すべし
如来の大悲の恩徳に報じ、報いる、これは難しいことでない、念仏申せと呼びかけられている、迷いの衆生よ、念仏申せというその呼びかけの応えて南無阿弥陀仏と念仏する。これが報いるということです。いつも聞いていることですが、あらためて考えてみると、たったこれだけが如来の恩徳に報いるということです。ここのところ今回もう少しきちんとお伝えしたいので、また明日にでもお時間をいただきたいと思っています。もうひとつ、報恩講というと、
師主知識の恩徳も  ほねをくだきても謝すべし
ということがある。この言葉は、親鸞聖人の詩歌ですから、親鸞聖人は、自分の所まで念仏の教えを届けてくれた方々、これを七高僧と呼んできたわけですが、その方々たちを師主知識といって感謝するといっている。大切な所なので、もう少し厳密に言うと、正信偈の最後の言葉にあるように、
弘経の大士・宗師等、 無辺の極濁悪を拯済したまう(じょうさいむへんごくじょくあく)。
道俗時衆、共に同心に(ぐどうしん)、 ただこの高僧の説を信ずべし、と。
この「等」というのは、名前もない人たちのことでしょう、高僧と呼ばれることもなく、歴史の教科書に残らないけれど、念仏の生活をして生きて死んでいった方々、親鸞聖人が加古川の教信沙弥というかたを大変尊敬されて、その方のように、偉い坊さんでなく、「僧にあらず俗にあらず生きたい」とおっしゃったのは有名です。この人たちの指し示した教えによって「拯済」される。だから唯この高僧の説を信ずべしという。無辺の極濁悪を拯済したまうことを感謝する。無辺の極濁悪とは私たちのことです。無辺とはほとりが無いというのですから、ここまではここにおったけれど、これからはそれを克服してほとり、岸に上がってそうではなくなるというのでない、ほとりが無い。克服できなくて、違うものになれない。極濁悪というのは、言葉の感覚で感じてください。極は、極めて、ものすごく、濁は濁る、濁るてどうゆうことや、一言で言うと、煩悩でいっぱいや、そんな悪。煩悩でいっぱいと簡単に言うけれど、それはどういうことか実は仏教は一つ一つ言葉にしてくれた。それだけ人間を見た。「無辺の極濁悪」と同じような人間を言いあてた言葉に、「邪見憍慢の悪衆生」という聞きなれたことばがあります。この憍慢について、
憍 自分について自らの心のおごり高ぶること
慢 他に対して心がおごり高ぶることを慢と言います。自他を比較して、他を軽蔑し、自らをたのみ心が高ぶる。
慢は他と比較して起す驕(おご)りで根本的な煩悩とされるが、憍は比較することとは無関係に起る。家柄や財産、地位や博識、能力や容姿などに対する驕りで付随して起す煩悩であるとされる。「憍」を八憍といい、盛壮憍(元気であるという誇り)、姓憍(血統が優れているという誇り)、富憍(お金持ちだという誇り)、自在憍(自由だということの誇り)、寿命憍(長生きであるという誇り)、聡明憍(頭が良いという誇り)、善行憍(良い行いをしているという誇り)、色憍(容姿の誇り)。
それらを皆煩悩という。仏教の言葉というのは人間の存在をつぶさに言い当てる、言い表している。煩悩は108あるというけれど、こんなに細かく表しているということは、もっとたくさんあるのかもしれません。
話を戻しますと、その無辺の極濁悪が救われることをはっきり教えてくれたことを感謝する。はっきり教えられたら生きれるんです。どうですかね。私が生きる理由をはっきり教えてくれるのが浄土真宗の教えです。そのことを亡き人を縁として共に聴聞するのが浄土真宗の仏事です。人は人生の最後に最大のことを教えるのだと、生あるものは死す、命あるものは必ずその命を終えていく、人に限らない、動物を飼う、愛情をもって共に過ごし、やがてその命が終わっていくときに、死に別れる悲しみに出会う。いのちは最後に最大のことを教えるということ、それはまた自分も死ぬことなんですが、なかなかそこの自覚はないものです。そう習ってきた。ところが、なんだか妙に、その厳粛ないのちの別れにならない。うまいこといえませんが、命あるものは必ずその命を終えていくということが、人生の最後に最大のことを教えるのだと、とそう習ってきたし、伝えてきた、うなずいてきた言葉が、なにか空回りしているように、最近、思えてならない。葬式で小学生が人が集まることがうれしくて走り回る。保育園児でない、三年生、四年生です。親たちは小さいからと、見て見ぬふりというより、そんでよいという風で、騒ぐ子を叱るのは私だけです。あんたたちは葬式に来ているんだよ、遊びに来ているのでない、でも「だって、ばあちゃん死んでも悲しくないし、」といって、傍らに泣いている子の涙をそらす。それでいいのか、それは私にとってはもうぞっとする感覚です。亡くなった人と近い親戚だから子どもたちは前に座る、前で騒いでいるから、「前にいるんだから行儀の悪いことするな。」と私は言いましたが、本当は騒ぐと行儀が悪いからおとなしくせんなんのでないのでない。小さいからこそ、人が死ぬという大事に身を据えてほしいのです。またとない機会です。人の死はそれぞれ一度限りですから、それこそまたとない機会なのです。それなのに、どうすればよかったのか、いまだにわかりません。どうしていけばいいのかもはっきりしません。皆さんはどう思われますか。それでそこにまだ留まり続けています。(続く)