いなみの父ちゃんの祠堂経

いなみの父ちゃんの祠堂経をあげた。
かえりしなばあちゃんが「今日はありがとう。いいがんにしたね、住職さんが死んで八年、すっかり板についたね。がんばったね、こんで誰が来てもはずかくない、いいがんになった。がんばったね。」といった。「あらぁ、また私を泣かす気やわいね。」と、私は笑って一緒にいた娘さんに言った。
帰り道の階段で「ばあちゃん、いつもお地蔵さんの花ありがとう。」と言うと、「あんたしっとったかいね。」というので、「ほりゃみとるわいね、しっとるよ。」といったら、「なあん私は気がむいたときだけやわいね。」なんていうので、「ほんなことない、知っとるよ、お地蔵さんよろこんどるよ。」と私は言った。
そしてばあちゃんは、「じいちゃんは、あんたかわいかったんや、ほれだけは本当や、本当にあんたがんばった。」といって階段をおりきった。その背中に「ばあちゃんありがとう、またね。」といって走って帰って、泣いた。

私一人の力であるはずもない。けんかばかり時には無視しているけれど、母のお陰だ。それから、お兄ちゃん、優しいだんな、愛する娘、村の人、法話に呼んでくれる住職さんたち、毎回来てくれるご門徒さん、温かい目で育ててくれる先輩方、村の人、おばさんたち、・・・アカデミー賞の時のように次か次からお世話になった人たちの顔が浮かぶ。

先日、「坊主の仕事は、やって当たり前、やってもやってもけなされることはあっても、褒められることなどない、報われない。」という言葉に、「そうではないですよ。がんばっていることを見てくれている人が必ずいます。現に今日たくさんお参りに来てくれるのは、住職さんががんばっているから来てくれるんです。」と話していた。「そうだね、ご門徒に育てられてあるね。」と共に納得した。
報われないことなんてない。褒められたい認められたいと望んでやるわけではないけれど。その日の空は美しかった。