たのめというのは如来のこころです

月忌参りの御文は4月は五帖目四通を読むことが多かったが、赤本しかないお宅では、繰り読みしているので「白骨」を読んだ。蓮如さんの「たのめ」という言葉が気になっている。赤本に掲載されている四通の御文のうち、三通に「たのめ」がある。

末代無智の、在家止住の男女たらんともがらは、こころをひとつにして、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、さらに余のかたへこころをふらず、一心一向に、仏たすけたまえともうさん衆生をば、たとい罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来はすくいましますべし。(五帖目一通 末代無智)

善導のいわく「南無というは帰命、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀というはすなわちその行」(玄義分)といえり。「南無」という二字のこころは、もろもろの雑行をすてて、うたがいなく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつるこころなり。(五帖目十一通 御正忌)

されば、人間のはかなき事は、老少不定のさかいなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏もうすべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。(五帖目十六通 白骨)

そんなたのめ、たすける。そうでないがね。蓮如さんたのめというておられるのが本願やがね。そういう話ですよ。たのめというのは如来のこころですよ。如来の心にたって蓮如さんはたのめといっておられるんですよ。たのめというのは如来の心です。(木越樹師のことば)

そうか、とうなずいたはずなのに、「如来のこころにたつ」に躊躇する。念仏を勧めることに迷いが出てきた。それは念仏がどうのということではなく、その勧める私がどこにいるかということが、のどに骨が刺さったような感じがしている。「如来のこころにたつ」、立ったつもりでいることとどう違うのだろう。