みえぬけれどもあるんだよ、

三日間の夏の永代祠堂経法話も今日まで。夏休みの宿題と、夏休みが終わる。
今回三日間のテーマは金子みすずの詩『ほしとたんぽぽ』。

「ほしと たんぽぽ」

あおい おそらの そこふかく、
うみの こいしの そのように、
よるが くるまで しずんでる、
ひるの おほしは めに みえぬ。


みえぬけれどもあるんだよ、
みえぬ ものでも あるんだよ。


ちって すがれた たんぽぽの、
かわらの すきに だァまって、
はるの くるまで かくれてる、
つよい その ねは めにみえぬ。


みえぬけれどもあるんだよ、
みえぬ ものでも あるんだよ。

『ほしとたんぽぽ』金子みすず絵本 より

今回何を話さしてもらおうか、いつものように焦って、友人の寺報に目を通していました。40年前に先生に言われた言葉を思い出したのだという。「寺ほど、念仏に遠いところはない」という言葉。時代は「お東紛争」といわれた教団問題の真っ只中だった。その時に得度を受けたいと申し出た時に言われた言葉だった。その言葉を、先生が対立する僧侶たちに対する批判の言葉として聞いていた。

この寺に入寺して(住職になって)満4年。ようやく、実はこの言葉は先生が自らを嘆く言葉だったということが分かった気がします。お内陣の掃除をし、お朝事をして、年忌法要でお勤めして、気分をよくしている。が、ホンマに仏事になっているのか。あちこちの法座に座りながら、お説教のネタ探しをしている。お聖教の言葉を「ちょっとイイ言葉」とお話の調味料に使っているのでないか。寺を御聖教を自分の野心を満たすものにしているのではないか。(『高雲寺便り43』より)

いい気持ちになっていることの痛み。
そういうことがやけに印象的でした。和田稠先生もやはり、「寺ほど、念仏に遠いところはない」という言葉を言われていた。もしかしたら時代が生んだ言葉なのかもしれない。
でも、お内陣の掃除をし、お朝事をして、いるんだな。偉いなぁ。自分が恥ずかしい。
それで昨日、不意に家に帰ってから草むしりをしました。砂利がひいてあるところだけなんですけど、たいそして自分たちでひいた砂利のお陰で草は抜き易い。タンポポがありまして、思い出しました。
みえぬけれども あるんだよ
みえぬ もの でも あるんだよ
金子みすずは(ひるの)ほしと、(ふゆ)のたんぽぽ、に象徴される、みえないけれどもある、みえないもので(も)ある「もの」、あるいは「こと」が、なにだというんでしょうかね。
愛でしょうか、欲への悲しみでしょうか、気付かないで踏みつけているものでしょうか。

いろいろ考えさせられます。
私たちは見えないけれども、南無阿弥陀仏の教えを生きています。