釋尼安養(あんにょう)通夜説法

みなさん本日は釋尼安養(あんにょう)さん、○○さんの葬儀式、お通夜ということで、お集まりいただき誠にありがとうございます。このような大切な場に住職が来るのがあったり前なのですが、当寺は寺だけでは食べていけない貧乏寺で、住職は介護の仕事をしておりまして、今日は私が代理で勤めさせていただくこととなりました。本当に申し訳ございません。

住職は私の添いあいなのですが、前住職の私の父が亡くなってからずっと、月忌参りを勤めさせていただいています。亡くなった○○さんはこの月参り、おじいさんのご命日のお参りを大事に勤められる方で、24日のご命日に用事があるときは連絡をくれて一日・二日後でも必ずお参りさせていただいておりました。近年、ご病気で入院されることがあり、その時だけはお参りできなかったのですが、退院されてからはひだいと(方言で、“すぐ”の意味)、「月忌参りをお願いします」と電話がかかってきまして、よかったよかったと思っておりました。ご病気をされてから家に帰ってこられ、体が以前より動きにくいような感じでしたが、足腰が痛くてもちゃんと生活しやすい家になっていて、うちにも年老いた祖父母がおりますので、うらやましいなと、いいがんになっなっとるね、とよく話していたものでした。世間話や、それから離れて暮らしている愛する人たちの話をうれしそうに話しておられました。病気がちで足腰が痛かったんですが、本当にいつ行ってもおうちがきれいで、出来ることをゆっくりと少しずつ、お掃除されている姿が目に浮かびました。お参りの日はお菓子とお茶の用意を欠かさずにこう、コタツの上に置いてあって居間に座られて待っておられました。今月は入院されたということをお聞きしておりましたので、また帰って来られると疑いもしませんでした。ところが、もう、私を待ってくれない。あって当たり前だと思っていた時間が急に無くなって静かな悲しみという痛みに浸るような感覚を覚えます。

この度、○○さんに法名をつけさせていただくことになりまして、住職と相談していたのですが、どんな字がいいかと考えておったときに、「穏」穏やか、という言葉や、「安」安らか、そういう言葉が浮かびました。いつも穏やかで優しい顔をしておられた。そんな方でしたから、この別れは、静かな悲しみという痛みでありながら、私にとってはどこか穏やかなものを感じます。もちろん、今日お集まりくださった方々には、この別れが身が裂かれるような悲しみであるという方もおられる違いありません。

この安養(あんにょう)という言葉は、今日皆(みな)でお勤めしました正信偈の中に二度出てまいります。
一生造悪値弘誓 至安養界証妙果 
一生悪を造れども、弘誓に値いぬれば、安養界に至りて妙果を証せしむと、いえり。
安養というのはお浄土のことです。一生悪を作っても、弘誓(ひろい誓い)阿弥陀さんの誓いです。どんな誓いかと言うと、全ての人をおさめ取って捨てない、そういう誓いです。もう少しいうとこれが念仏南無阿弥陀仏ということです。南無阿弥陀仏するひとをおさめとって捨てない、これをすくうというのですが、全ての人を救うという阿弥陀さんの誓いに値ったら、あうと表現していますが、これを現代的に言うと、気付いたら、ということになると思います。気付いたらお浄土に生まれる。死んだらどこへ行く?死んだらお浄土へ帰る。○○のおじいちゃんもおばあちゃんもお浄土へ帰っていった。お浄土は私たちが生きているこの世界ではない、争いや嘘や偽りや欲もなく悲しみも痛みもない世界。

もう一つは、源信広開一代教 偏帰安養勧一切  
源信、広く一代の教を開きて、ひとえに安養に帰して、一切を勧む。
源信僧都という方がおられて、たくさん仏教を勉強された。
そしてお浄土の教えを全ての人に勧められた。
優しい穏やかな人を思って、安養(あんにょう)という言葉が浮かぶのは、浄土というのはそのような世界であると私たちが聞き繋いできたからなのかもしれません。

今夜はお通夜という場ですので、この「お浄土」という言葉を初めて聞いた方がおられるかもしれません。またこの度、○○さんの葬儀式を勤めるのですが、浄土真宗の儀式で執り行います。浄土真宗という言葉をご存じない方もおられるでしょう。村の方には当たり前のことであることことが、一体なんなのか、だんだんわからなくなっているのが現代のような気がしています。なぜ浄土という言葉がそんなにありがたいのか、葬式ってなんや、月参りってなんでせんなん。そしてばあちゃんやじいちゃんはなんであんなことを大事にしとったんだろう。ところが、実はこういうことがもう最後の一点です。○○のおばあちゃんがなぜ熱心にじいちゃんや仏様に手を合わせていたのか。私たちが葬儀でなぜ自然に手を合わすのか。
人生の先輩たちが手を合わせていた仏様について少しお話します。浄土真宗の仏様は、ちょっとややこしいのですが、阿弥陀仏という名で、阿弥陀さんというと、仏様はこう仏像、人の形をしておりますが、実はそれが方便法身といいまして、方便「本当のことを伝える手立て」なんだと。では何を伝えたいのかというと、南無阿弥陀仏という言葉がその姿になったのだと。ややこしいですね。人はすくわれるというと人が手を引いてすくうということがわかりやすい、こういうことがあります。

さて、南無阿弥陀仏阿弥陀には、二つの意味がある。アミターバ(無限なる光)・アミターユス(無量なる寿)。私たちは有限なる光を生きている。光あるところ必ず影があり、その光がさえぎられる。私たちは生あるもの必ず死す有限なる命を生きている。南無という言葉の意味はお任せするということ。有限なる光・有限なる命を生きている私たちは無限・無量な物はわからない。だから、南無阿弥陀仏ということは何かわからないものにおまかせしなさいという意味です。それでは何をお任せするのか、自分をおまかせする。
それは自分自分という思いが、苦悩を生む。自分の思いで、他者を裁き、あれはダメだこれはダメだと切り捨て、そしてその価値観で自分を傷つけている。善い自分と悪い自分を作り、善い自分は善しと受け止め、悪い自分は悪しと切り捨ててしまう。私たちはこころの深いところではいつもどこまでも自分を愛することが出来ない。

ところが、阿弥陀さんは、いつでもどこにも誰にでも、えらばず嫌わず見捨てずに、私が見放しそうな私も見捨てることなく、「我が名を呼べよ」といつも呼びかけてくださっとるんやぞと。だから南無阿弥陀仏せいよと、一人でなかなくていいんだぞ、と。
そういうことが親鸞聖人の念仏の教えだと聞いてきています。私たち北陸の真宗門徒はずっと聞き繋いで、手を合わせてきたのだと思っています。若い人にはなんやら難しかったかね。まとまらない話となりましたが、これで、通夜説法の代わりとさせていただきます。本日はお参りいただきありがとうございました。(終)

・・・通夜説法、長いのはいけません。もう一言二言足りないねぇっ、と思い毎度心残りです。