父の七回忌

今日は父の七回忌ということで、皆様に集まっていただきまして、本当にありがとうございます。亡くなった3月4日のことを今でもよく想い出して互いに涙を流すこともあります。今年は法事をしなければならないということで、遅れてもなんてこともないことを寺が証明しなければならないので、というのは、冗談ですが、少し暖かくなって孫たちみんなが集まりやすい春休みに法事をすることにしました。


まず法名軸について、坊主嫌いだった父が唯一信頼し、尊敬した、○○寺の○○師におととい、お願いしたところ本当に快く引き受けてくださって、それどころか、書かせていただく縁を父が与えてくれたと感謝・感涙したとおっしゃってくださいました。本当に、大切にしていきたいと思います。


今日は寺の法事ということもあって、お坊さんがたくさん来られました。近しくお付き合いをさせていただいております、○○さん、当寺住職のご両親である○○寺のお父さん、七尾のお兄さんにいたってはお勤めの先生ですから、私なんかが話すというのは恥ずかしい限りですが、少々目をつぶっていただきまして、
先ず、浄土真宗の法事は、他宗の法事と違いまして、死んだ人のためにお経をあげたり、そのお経をあげたこと、あるいは念仏を称えた功徳を振り向けるということはいたしません、では何が願われてきたと言うと、亡き人を縁として、お念仏の教えに会う、お経におうて、法話をいただく、その後のお斎で、聞いた話やこれまで聞いてきて思っていることを話し合う、これを「真宗の仏事は讃嘆(読経・法話)談合(示談・改悔)なり」ということがいわれてきた。そういうことで、今日は精一杯法話をさせていただきたいと思います。


さて、私は父が死んでから、ずっとテレビが嫌いで、騒騒しくてイヤで、何より、
人の作った物に心が揺さぶられるのは嫌だった。事実は小説よりも奇であるから。
ここにいるどなたも親やいろんな人と死に別れたことがあると思います。全ての人が私のように、テレビの騒騒しさを嫌になるわけはないですね、最近気づいたんですが、私はたいがい「神経質」なんですね。気付くのが遅いですね、困ったもんです。

でも、ある日『Dr.コトー診療所2006』の再放送を観て引きずり込まれてしまった。感動して泣きました。そこに出ている女優さんが少し、大好きな妹と似ていて、かわいらしいなぁ、がんばれよと応援するように見ていた。

その中に、「少年よ大志をいだけ」 ボーイズ・ビー・アンビシャスという言葉がでてきた。(今から150年前くらいの)ウィリアム・スミス・クラーク博士の言葉。この方は札幌農学校 (現北海道大学) 初代教頭。だった方だそうです。


少し、この言葉の背景を聞いてください。
東京の大学病院の優秀な外科医の「後藤さん」が、わけあって、沖縄の本土から船で七時間の孤島で、医者として、再出発するためにやってきた。
はじめは村の人はけげんがった。うさんくさいなと。
これまでの村の医者は内科の医者や誤診をするやぶ医者ばかりで、みな医者を信頼できずにいた。内科の医者だから、手術が出来ない、緊急の時や手術がいるときは本土まで船で7時間かけてこれまで行っていた。本来ならたすかる病気も死に至ることが珍しくなかった。

コトーを連れてきたのは漁師の剛敏(たけとし)の船で、息子、剛洋(たけひろ)が共に船に乗っていた。父剛敏は、医者を憎んでいた。妻が島の医者に風邪だとずっといわれていて、癌で死んでしもた。

ある日、剛洋(たけひろ)が、弱虫といわれたくなくて、お腹が痛いのをずっとがまんしていてもうちょう、(がまんしとってひどなって)ひどい虫垂炎になった。本土の病院へと船を出す。コトーと看護師の綾香と助手の戸田が一緒にその船に乗った。このままでは間に合わないということになって、船の上で手術をした。その日から息子剛洋(たけひろ)はコトー先生のような医者になりたいと思うようになり、医者を何より憎んでいた父が、息子の医者になる夢を叶えようとする。
少年よ大志をいだけ、この言葉は、医者を目指して本土で勉強する剛洋(たけひろ)に、コトーが、自分もやはり虫垂炎で苦しんだ時にたすけてくれた医者に出遇って、医者を目指すことになった。その先生にもらった英語の辞書を、剛洋(たけひろ)に贈った。その辞書の表紙の裏に書かれていた言葉だった。
コトーは剛洋(たけひろ)に辞書に添えて手紙を書く。「入学祝にこの辞書を贈ります。」


少年よ大志をいだけ
この次に続く言葉を知っていますか。
お金のためではなく
私欲のためでもなく
名声という空虚な志のためでもなく
人はいかにあるべきか
その道を全うするために大志をいだけ
Dr.コトー診療所2006』より
はたしてこの言葉は少年にだけ向けられる言葉なのでしょうか。
友人が「私には生きる意味がないから、死にたい」といいます。自分が生きていることが許せない。一番殺したいのは自分だ。

こんなことをいっていいかわかりませんが、DV(家庭内暴力)、
夫が妻に振るう暴力もDVですが、子どもに対してもそうですね。
認知度が低いのが、「息子が母親に対する暴力」ということも実はたくさんある。
DVで最近多くなっているのは、性暴力ということがある。


彼の場合は、小さいころから父親に何度も骨をおられ出血は当たり前、気を失うような暴力を受けてきた。
このような暴力を受けてきた子どもたちの多くは、自分を愛することができない。自殺するということも多いのだそうです。もちろん原因はこれだけではないと思いますが。


虐待されてきた過去がある。どうしても自分を尊いものと思えない、愛することができない。どうですかね、それでもその身を引き受けて生きんなん。
「私には生きる意味がないから、死にたい」というけれども、私は生きることに意味が無くてもいいと思っています。意味を感じている人はむしろ夢を見ているようなものだとさえ感じています、どうですかね。
私はわずか36年しか生きていませんが、自分自身が誰かに本当に必要とされていると感じたのは、娘が産まれてからのほんの一時だったように思っています。


あとはずっと、なんとなく、そして、あてもなく探しているような感覚。
何を探しているかというと、「生きる目標」かもしれません。

お金のためではなく 私欲のためでもなく
名声という空虚な志のためでもなく
人はいかにあるべきか その道を全うするために大志をいだけ

テレビでは、Doctorコトー先生がその言葉を贈った少年が、
「先生は、人はいかにあるべきか、その道を見つけたの?」と聞いた。
コトー先生は、「いいえ」と、「その道を見つけるために生きているのかもしれない」といった。私はコトー先生がそう言うと思っていた。これは是非一番初めから見たいと思って、(2004年にはじまるのですが、)はじめから全部見た、コトー先生を見ているとそれが伝わってきたし、そういうと思っていた。


さて、「念仏は自我崩壊を促すもの」なんだと、聞いています。自分が自分をイメージすることでくたくたなっている。その自己を壊すもの。そして、念仏は生きる方向であり、表明である。「私は南無阿弥陀仏を生きる」と名のるもの。
人はいかにあるべきか その道を全うするために大志をいだけ
私たちにはその中心に念仏がある。自己から出発して自己を見つめていてもだっちゃかん、南無阿弥陀仏の南無は帰命という、帰依という、よりかかる、よりたのむということ。このたのむというのは頼むでなく「憑む」のだそうです。お願いするんでないんですね、「憑む」「憑く」んですから、なにか狐が憑いたときに自己をのっとられるような、そうですね、そういうことが自我崩壊ということなのかもしれません。
この「憑く」ということを村の人に言うたらどうしてもなんかわからん顔をしておいでた。どうですかね、
如来は我なり、我は如来にあらず
如来我となりて、われをすくいたもう (曽我量深)という方の言葉です。

如来我となりて、」というのですら、「如来が私に憑く」のかもしれませんね、南無阿弥陀仏阿弥陀如来が憑く、憑くとどうなる、
のっとられるですから、私、私、と言わんでよくなる。自我崩壊でないですかね。それから、私、私と言うとることに気づかされる。どうですかね。


なんもまとまりませんが、最後にね、ちーちゃんが一週間に一回くらい頻繁にじいちゃんばあちゃんの様子を見に来る。この前、むさい顔して、「おばあちゃん最近、急に衰えてきたみたいやね」と寂しそうにこっそり泣いとったんを私は見たんです。

妹が、嫁いだ先のひいばあちゃんを、一年寝たきりの家族を介助し、死をみとった。その妹がいうにはおばあちゃんがもうだめだと。おばあさんの時と一緒だと、こう、背中で息をするような苦しい様子で、息をするのが大きくなったときは、もうあきらめんなんよ、というた。衰弱だと。うまい介護だったかそうでないか、そんなことは関係ない、どんなことしてもだめなんだと。


おじいちゃんがそんなおばあちゃんを見て手を合わす。
ばあちゃんはじいちゃんが部屋に入ってくると「なんしとやらんや」「戸を閉めれて!」と怒る事もあるそうで、まだ大丈夫かなぁとも思っていますが、
ばあちゃんが寝とる時、おじいちゃんがおばあちゃんを見て手を合わす。


それを見たうちのお兄ちゃんが「俺、おいおいじいちゃんまだ早いぞ、ばあちゃん生きとるぞと思う」といい、私と妹は同時に、それは手をあわせとる意味が違うよ!と言って、笑っていた。


じいちゃんは今でもよく、ベットに寝て説教をする。歯もいれとらん、いれば枕元に置いて、くしゃーとなっとる。
「みなさんようこそお参りくださいました。私はおかげさまで、こんなに長いきさせてもろうて、よくね、歳を忘れるんですよ。歳を忘れるまで、こうしていのちをいただいてあることを本当にうれしく思います。朝起きて、ああ、今日もいのちがあった、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。ご飯がこれまたいつもおいしくてね。ああ、ありがたいなぁ、いのちあることがうれしいなと、そう思うておるんです。」こうはっきりと、まあ、何回も言うております。
正直、そんなじいちゃんの言葉がうれしくて、泣いてしまうことがあります。
私は、いつも怒ってばっかりで、恥ずかしい、情けない。恩を感じていながら、この次は優しくしようと思いながら、側にいることしか出来ない。でも「ありがとう」とよく言われます。じいちゃんがおばあちゃんに手を合わすのも、いのちを喜んでいるのだと私たちは思っています。「ああ、ばあちゃん、南無阿弥陀仏。」


農家の12男坊に生まれたじいちゃんは、百姓したなて、坊主になった。そして、念仏の教えを喜ぶ生活を今まで送ってきた。
父は対照的に、寺の次男として生まれ、外国線航路の船乗りになり、当時は学校の校長先生より給料をもらったと。お金のことだけでないけれども、55歳くらいに、寺をしたくないけれど、これ以上歳を取ると新しいことができなくなると決めて寺に帰って来た。寺の仕事は、月忌参りも法事もみんな生産性のない、無駄なことだと言い続けていた。
どちらの言葉も私には大事です。
寺の仕事が尊い、立派な仕事だと思ってやることではないと思っています。
だから私の話は、法事・仏事とは何か、念仏とは何か、なんで念仏や、そういう話が多いです。


それでも、私たちは、南無阿弥陀仏といのちを喜ぶ生活を聞き開いてきたのではないでしょうか。老いて、いのちを終えていく身であるけれども、いただいたいのちを喜んでいく、そんな人々に私たちは出遇ってきたのではないでしょうか。「念仏は自我崩壊を促すもの」そして、念仏は生きる方向であり、表明である。「私は南無阿弥陀仏を生きる」と名のるもの。そういうことを今一度、背中を見て来たものの勤めとしてこれからも共に聴聞して参りたいと思います。
皆さん、本日はお参りいただきまして、本当にどうもありがとうございました。