永代祠堂経 法話 08/2/21(一部)

こんにちは、昨日はどうもすみませんでした。こういうことは理由にもならないのですが、21日と22日だと思い込んで、疑っておらず、昨日ご住職から電話があって「今日ですよ!」といわれ目の前が真っ白になりました。本当にすみませんでした。とても残念です。ご住職が「私が話します」をおっしゃってくださって、たすかりました。でも今日こうしてまた今年もここに呼んでもらって皆さんにあえてとてもうれしいです。


電話があった時も、「明日なんしゃべろうかな」と思っておりました、そんなわけで昨日一日中なんしゃべろうか考えていました。ふとテレビに目がいった。昨日テレビを見た人はほとんどの人がわかると思いますが、海上自衛隊のイージス号が、漁船に追突して、漁船がパカンと真っ二つに割れた。乗っていたのは漁師の親子で、息子は高校を中退して漁師をしとる。漁師になりたがる人が少なくなっていきてる中で、わたしたちの言葉で言うと、きとくな若者やったと。テレビには顔写真も出ていた、学校の先生も親戚も優しい子やったと言っていた。「あらー、かわいそうになと」ニュースを聞いたときは海上自衛隊のミスなんだろうなと思った。
ところが、「4年前ほどから路上生活者支援をされていた」ときいて、身を乗り出してテレビを観た自分に驚いた。上野でしたね、たくさんたくさん送っておられたそうですね。


なんで身を乗り出さんなん、「路上生活者支援をされていたいい人」やから、どうかたすかってほしいと祈るようになる。それまでは「あらぁ、かわいそうに、こんなとこでおもとっても何にもならん」くらいにしか思っていなかった。いいことするひとにはいい結果が返って欲しい。そうじゃないと言いながらやっぱりそう思う。お布施をたくさんあげる人そうでない人、絶対に応対を変えたくない。でもたくさんあげた人には幸せになって欲しいとどうしても思ってしまう。


親鸞聖人のご和讃、仏智疑惑和讃に、

<第十五首>
罪福ふかく信じつつ
善本修習するひとは
疑心の善人なるゆえに
方便化土にとまるなり

「罪」悪いことしたらバチがあたる、「福」いいことしたら福が来る、幸せになる、そう思って、よい種を植える、よいことをする人は、「疑心」仏さんをうたがっとる。ただ念仏の教えをうたがっとるんだ。そういう人を「善人」という。

この「善人」というのは、『歎異抄』第三条に出てくる善人。

三 善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや。この条、一旦そのいわれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆえは、自力作善のひとは、ひとえに他力をたのむこころかけたるあいだ、弥陀の本願にあらず。

この善人のことですね。その人は「方便化土」にとまっとるがや、仮の浄土ですね。方便というのだから、本当の浄土を知らす仮の浄土です。(本当の浄土と仮の浄土といったご門徒に叱れたことがありました。)


歎異抄』第三条の続きの言葉を見ればわかる、

しかれども、自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。


ニュースに戻ると、彼が「いいこと」をしようと思っていたのかはわからない。それから「いいこと」をするのが意味のないことだとは思わない。
自分が「いいことをした人」、「いいことをしてきた人」として価値付けして大事に思うことが悲しい。「路上生活者支援をされていた、ほかにちょっとおらんくらい、いい人やから生きとって欲しい」それは、排除されるものが必ずでてくる。いい人で無かったら気にもとめんということ、誰の役にもたたんかったら死んでもいいということ、どうですかね。

<第二十三首>
仏智うたがうつみふかし
この心おもいしるならば
く(悔)ゆるこころをむねとして
仏智の不思議をたのむべし
仏智疑惑和讃

念仏の教えをどれだけ聞いても、いいことをしてたすかりたい、(念仏して)さらにいいことをすることでたすかりたい、と思うことを「仏智を疑う」という。その罪は重いけれども、そのような自分を悔い、そうでしかない自分を悔いて、「仏智の不思議をたのむべし」。
そういうことを思っていました。
永代祠堂経法会 2008.2.21.