仏弟子が問題にならない(のか?)

仏弟子」のことが気になっている。後まわしにしたいのに気になっている。
明日は法話があるから、それの原稿をまとめたい。仏弟子が気になっているならそれをまとめればいいのだけども(それを明日はなせばいいのだけれど)・・・そうもんもんとしている。ではなぜ「仏弟子」が話の主題にならないか、そこで本気になれないのかというと、仏弟子の問題というのは、限られた人の関心事だと思う。現に家族にはタブーで、軽く無視されるか罵倒されるのがオチなので言葉に出来ない。(浄土宗の僧侶の従弟が来たので愚痴る。)そして、明日ご門徒の前で話すのもどうかと思う。一体「仏弟子とは」という話は誰が聞きたいのだろう。

問題になっている「仏弟子」は、先日の親鸞教室のテーマだったのだが、突然発題(所感の発表)を私が担当することになって、困った。「今回だけは困る」と吐露した。なぜなら、仏弟子は日頃問題にしないし、ならない。私は仏弟子を目指しているわけではないし、でも仏弟子でないわけでもない。このブログでも仏弟子として語っている。正直に「なにを今更、仏弟子末法ということが主題でないの?」といったくらいだった。それで、(正、像、末の)末法は、仏(自体)がわからない時代であり、仏弟子といっても仏ということがわからないからすくいがわからない、涅槃が自分のすくいとならない。仏法によってすくわれようと誰も思わなくなった。如来の遺弟悲泣せよ。そこに立って、親鸞聖人は「弥陀の本願信ずべし」という声を(夢告で)聞いたから、いつの間にかまた仏道ということに立っていた。もう一度迷いに立ち返って、もう一度聞く原点に。仏がわからない末法の時だからこそといよいよこれから聞くという意欲。そういうことを聞いてきたのだった。

そんなわけで、今から明日の法話原稿を作る。お題はお寺とはなにか。ちょっと待て、仏弟子とは、とあんまり変わんない。ぶつぶつぶつ・・・らくりんさんありがとうぶつぶつぶつ・・・浄土宗の従弟のように念仏がでてこない・・・。