「西田哲学から宗教について―『西田幾多郎 世界の中の私』より」永代経法話3後半

三 自己矛盾から宗教へ

自己矛盾の事実は「死の自覚」にある。(?三324)
「斯(か)く自己が自己の永遠の死を知る時、自己の永遠の無を知る時、自己が真に自覚する。そこに自己があると言う事は、絶対矛盾でなければならない。」(??325)
私は必ず死ぬということを知る時にこそ、ただ一度の人生を生きる個としての私が意識される。死の問題に直面してこそ、生きている私が強烈に意識される。自分が死ぬことを知っている私を「永遠の死を越えたもの」(??325)という。

どうですかね、こういうことをよく言ってきました。実際、親しい人と死に別れた方には、私も父をなくし、「人は死ぬのだ」「有限のいのちを生きているのだ」ということを、つきつけられ、知らされた。死んでいくことを良くみるということは、「思いどおりにならない」ということがはじめてわかる。
こんなことしか言えない。ここでも聞いていただきましたが、言うて来ました。

西田は、神や仏といわれるものと人間との関係を「逆対応」という言葉で考えている。
「神は絶対の自己否定として、逆対応的に自己自身に対し、自己自身の中に絶対的自己否定を含むものなるが故に、自己自身によってあるものであり、絶対の無なるがゆえに、絶対の有(う)であるのである。絶対の無にして有あるが故に、能(あた)わざる所なく、知らざる所ない、全智全能である。故に私は仏あっての衆生であり、衆生あって仏があるという、創造者としての神あって創造物としての世界があり、逆に創造物としての世界あって神があると考えるのである。」(??328)

神は、見ることもできなければ、指し示すこともできない。その意味では「絶対の無」。しかし、神はいないのかといえば、そうではない。神はこの世界のなかに、どこにもいないとともに、どこにでもいる。これは矛盾です。西田は、「絶対の無」である神は絶対の自己否定をして、この世界のなかにいると考えた。


もうこれに関して言えば、私は仏あっての衆生であり、衆生あって仏があるという、なんていうのは、「浄土」ということでもそうです、「浄土」は「穢土」を知らす浄土である、ということと同じで、「仏あっての衆生」というのは、もうあたりまえに聞いてきました。「逆対応」という言葉は知りませんでしたが。
神や仏というものは、この世界やそこに生きるものと無関係にどこか超越したところにいるのではない。生きとし生けるものたちとともに、迷ったり悩んだり苦しんでいる人間たちとともに、この世界のただなかにいる。(仏あっての衆生衆生あっての仏)そして、人間が神や仏に救いを求める時、神や仏はまさに人間を救おうとしている。(「往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。『歎異抄 第一条』」)

西田は逆対応について書いているなかで大燈国師の「とても長い時間別れていても、ほんのしばらくの間も離れず、一日中向かいあっていても、一瞬も対面していない」という意味の言葉を逆対応をもっともよく表している言葉だと言う。神は、目で見たり、指差すことはできない。その意味では超越的。けれども、この世界のなかにいて、決して離れることなく人間とともに、人間の内にいる。その意味ではどこまでも内在的だ。

如来は我なり、我は如来にあらず、
如来、我となりて、我をすくいたもう
もう耳慣れてしまった、そんな有名な言葉がありますね。

そして人間が自分の罪や悪を自覚したり、神や仏に救いを求めたりする宗教心も、実は人間自身のものではなく、神や仏からの働きかけによるものだ、と彼は考える。
「神と人間との対立は、どこまでも逆対応であるのである。故に我々の宗教心というのは、我々の自己から起るのではなくして、神または仏の呼び声である。神または仏の働きである、自己成立の根源からある。」(??340)

ドイツ語でクベーレ、源泉というような意味なんだ。もとになるもの、と、佐野さんが言っていたことを思います。言うまでもなく、「如来の回向」「如来からたまわりたる信心」と聞いていますね。

ではこの章の最後です。これが一番ずんと来た。

四 生きていることは愛されていること。
「どこまでも自己自身に反するものを包むのが絶対の愛である。・・・我々の自己は自己自身を含む絶対の愛に接せなければならない。・・・いかなる宗教においても、なんらかの意味において神は愛であるのである。」(??367)

私たちは、今この世界に生きている。そして、生きていることそれ自体が、すでに神とか絶対者とか言われる何者かによって、愛されているのだ。

私たちは「ほんでいいがや」という言葉の前に何度、涙したことでしょうか。「私は、自分が善しと思えるものは善しとして受け入れられるが、悪しと思うものは悪しとして受け入れられることができない。阿弥陀如来は、いつでも、どこでも、えらばず、きらわず、見捨てず、いつも私を照らし守ってくださる。」大谷専修学院で繰り返し聞いた言葉です。

西田が神というのは「絶対の無」とか「絶対矛盾的自己同一」ともいわれるように、特定の宗教や神のことではなく、形はなくて目に見えないけれど、世界のあらゆるものがそこから生まれてくる源であって、全てを包んでいるもの。


これ如来でしょうね。

「絶対無の場所」がそれに対応する。あらゆるものの源であって全てを包む「場所」のことを、宗教論では神と呼んでいる。

それから「浄土」ということですね。「土」というのは世界・場所とぴったり来るのではないでしょうか。

「絶対矛盾的自己同一的場所の自己限定として、場所的論理によってのみ、宗教的世界というものが考えられる・・・」(??346)

これ、「浄土に生きる我」というふうにいえないでしょうか。私は穢土を生きる衆生・凡夫です。ところが同時に浄土という仏の国を生きている。そういうことだと思います。

「自己が自己の底に自己を越えるということは、単に自己が無となると言うことではない。自己が世界の自己表現点となることである。真の個となることである、真の自己となることである。」(??381)

うわこれ、すごいわかる、と思いました。
これこそが、昨日一生懸命申しました、生死出ずべき道は、生死の中にこそある、ということです。
だから、先生はなんども、ゴーリキーの『どん底』の話をされたのかなと思います。昨日の繰り返しになりますが、一生飲んだくれのバクチ打ちの亭主を持って、そうして貧民窟の一番最悪のところで結核を病んで、そこで臨終を迎えねばらないという、生きること全部苦労であったというような女性、アンナの臨終が近い時に、ルカという巡礼者がやって来て、「あなたはたいそう苦労して来た。まるであなたの一生は苦しむための一生だった。しかし、その苦しみはもうしばらくの辛抱で、もうちょっとすれば天国へ召され、再びそのような苦しみを繰り返すことはないだろう」といわれる。すると、そのアンナが「もうちょっとこの苦しんでいてもいいような気がします」。と、そういう真の個になり、苦しみのただ中を、今、生きる真の自己となる。それは、本当に愛して受け入れてくれる神であり、如来であり、浄土があるから、安心して苦しめる、そういうことでもあるのでないですかね。
それから南無阿弥陀仏の南無は、帰命とか帰依という意味がありますね、
如来の命に帰る。それから阿弥陀仏に依る、依り処にする。
そういう言葉がなぜか(重なる気がして)ビビビと来ます。自己が世界の自己表現点となることである。真の個となることである、真の自己となることである。これこそ南無阿弥陀仏だ。と直感的に感ずる。

章の最後に筆者はこう語ります。

私たちは場所の自己限定によって生まれた。私たちは世界の中にいて、一人ひとりはそれぞれ世界の一部分となっている。そして、一人ひとりはみんな違った形で、それぞれにただ一つの個として、この世界を表現しているのだ。一人一人が違うからこそ、それだけで世界は多様であって、世界が豊かに表現される。

こういうことを若い人達に私もまた語って生きたいものだと思っています。
なんか無性に「生きていることは愛されていることなんだ」ということを、伝えなければならないのではないかと、思えてなりません。

さて、これで終わりますが、西田の思想について、「親が熱心な真宗門徒だったので、自分もその影響を受けている」と言われたことを聞いた事があります。確かに私の聞いてきた浄土真宗の教えと(表現は違うけれども)「同じ」と思うばかりだった。しかし、それは、真宗門徒の家に生まれたことだけが原因とは思っていない。誤解を恐れず言えば、浄土真宗は、真実を問題にしている。どう生きたらいい、というのでなく、今どう生きているかを聞く教えであり、哲学が真理を求め、必死で言葉にするなら、そこに「同じ」ということがあって当然だと思う。ハイデッカーは、「こころの奥底にあるいいえぬもの」を命懸けで表現したのだとその兄が語った。これは親鸞聖人にしても和田先生にしても同じで、「いいえぬもの」である「南無阿弥陀仏」をなんとか、必死で言葉にしてきたと感じている。どうですかね。それから佐野さんが「出遇った人には言葉が生まれる」と言ったことも忘れられない言葉です。

さて、どうでしたでしょうか。
今日で八月も終わり、夏休みが終わります。(今年は二日までやね(笑))この三日間は私にとって、宿題をしたような気持ちでした。夏休みの始めに聞いた講義のまとめ、大事な本だから何度も読んで読んでいたのをまとめたかったのをやり遂げて、それから、「いつかは西田哲学にふれたい」と思ってきたことも一歩踏み出せたように思っています。一重に呼んでくれた住職さんとそしてお参りにこられる皆さんのお陰やと深く感謝しております。ありがとうございました。