「藤場俊基師の講義から学んだことを伝えたい。」永代経法話1前半

今日は夏の永代経に呼んでいただきまして、ありがとうございます。今年の夏も暑かったですね。うちの中におっても熱中症で亡くなるというニュースを聞きましたね。今年うちのばあちゃんは91歳になりまして、もうずいぶんオロオロになりました。そいうことで八月のはじめにあんまり暑いもんで部屋にクーラーをつけ、ほんのちょっとばあちゃん孝行できたかなと思っています。じいちゃんの部屋にもクーラーはありまして、もう電気代うんぬんいっていられないほどの日が続きましたね、大きな雷がなって雨が二日ほど降って秋の涼しさや寂しさが来た様な感じですが、昨日、能登町では集中豪雨があって、一時間の降水量が150ミリバール、金沢の三倍でしたね。うちが壊れて建物に挟まって助けれらたという方もおられたとか。


ちょっと余談になりますが、七月のはじめに九州地方に降り続いた集中豪雨は四日間で、一ヶ月以上の降水量を記録したということでした。近年「観測史上最大」「記録的な」とか「異常」という言葉をよく耳にするようになりました。台風やら観測史上最高豪雨やら、日本だけでない、世界各地でそれこそ「前代未聞の」異常気象が次々起きていて、(2005年の)ハリケーンカトリーナ」は1700人以上が命を落とすという事態になったということでした。
地球温暖化による影響で、暑いし、雨はどさーっと降るし、照って欲しい時に照らんし、今年はスイカがあんまり甘くなかった。赤く無かったね。これからどんどん気候が変わって、食卓も変わるだろうと、1.米は(北日本での収穫は増えるが、東海から西日本は減るといわれている)、それから2.牛乳や肉、(暑さから家畜も人間同様にストレスを感じるため質や量が低下する)。3.野菜や果物は、寒冷な気候を好む野菜、キャベツやほうれんそう、ブロッコリーへの影響は深刻。またりんごやブドウなどの気候の変化で色づく果物にも影響が甚大。赤ワインがキャベツ高値になったり、ストレスを与えんために牛小屋にもクーラーをつけんなん時代になってくるかもしれません。自分自身が起こした天罰やなぁと思う事があります。どうですかね。


さて話があさってに行ってしまいましたが、暑い夏というと、お坊さんはお盆の墓参りが大変ですね。住職さんも朝から夕方七時までがんばられたことをうかがっておりますが、今年は曜日の関係で、お盆ムードが長くて、一週間ほど道も混雑していたように思いますが、なぜか余地では流行らなくて、もし参って欲しい方がおられたら対応しようと待機しておった時間がはるかに長かったのですが、それでも少し、墓経の『嘆仏偈』をあげることがありました。


『嘆仏偈』「光顔巍巍」はいわずとしれた『大経』、『大無量寿経』のなかの偈文、つまり、歌ですね。「讃仏偈(さんぶつげ)」といって、仏様を讃える歌。正信偈のはじまりは、「帰命無量寿如来 南無不可思議光」 無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる。
その次に「法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所」法蔵菩薩因位の時、世自在王仏の所にましまして、「覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪」諸仏の浄土の因、国土人天の善悪を覩見して、いろいろな仏の国の成り立った原因と、そこに住むものの善し悪しをすべて見て、「建立無上殊勝願 超発稀有大弘誓」 無上殊勝の願を建立し、 希有の大弘誓を超発せり。この上なくすばらしい本願を建て、誓われた。
まさにその場面でありまして、『嘆仏偈』は阿弥陀如来が法蔵比丘である時に、その師の仏である世自在王仏の徳を讃嘆し、またみずからも迷えるものを救おうと表明する、法蔵菩薩の歌ですね。
少しだけ見てみますと、

光顔巍巍―世自在王仏の光り輝くみ顔は、
威神無極―威光がきわまりなく神々しく、
如是焔明―このような光明は
無与等者―何ものにも等しいものはありません。
日月・摩尼 珠光・焔耀 皆悉隠蔽 猶若聚墨―太陽も月も摩尼宝珠の光り輝きでさえも、ことごとく色うせてあたかも墨のように黒くなってしまう・・・


願我作仏 斉聖法王(願わくは我作仏して、聖法の王と斉(ひと)しからん。)―願うことなら私も仏の教えによって、世自在王仏とひとしく仏となりたい。

そして最後に、「我行精進 忍終不悔」(我が行、精進にして 忍びて終に(ついに)悔いじ)―どのような苦難にあってもこの願いをやりとげてやまないと誓う。


『大経』ではこの嘆仏偈のあとに四十八願が一つ一つ述べられる。とこういうことなんですが、聞いた事ありましたか。経典の勉強をしようと思っても、私はよく途中で嫌になるので、お話の機会をいただいてようやく確認しているような感じです。


これがですね、実は『大経』に同じような場面がありまして、「光顔巍巍―」と発声すると、私はなぜかそっちのビジョンがよく出てくる。光景というかね。それが今からお話する、『大経』の中の阿難と釈尊の対話です。(しつこいようですが、『嘆仏偈』は法蔵菩薩と世自在王仏ですね。)もっとも、『大経』は「仏告阿難(ぶつごうあなん)」、仏が阿難に告げる、「光源巍巍」もその時、釈尊によって語られる話なのでそうおかしくも無いですね。


とにかくこの今からお話する阿難と釈尊の対話のところは、まさに浄土真宗の要だなと。今日はまた感激して泣きながら聞いてきた事をお伝えしようと思っていますが、まずですね、親鸞聖人は『顕浄土真実教行証文類』、『教行信証』を顕して、名の通り、教の巻、行の巻、真の巻、証の巻、(証あかしですね。)真仏土、化身土、雑なこといえば六巻になっている。教巻、すなわち教えのところはとても短い、反対に化身土の巻は長い、私たちがどのような身を今生きているか、化身土には本・末に分かれたくさん書かれている。
今日話したいのは『教行信証』教の巻、実は教の巻は私にとっては難解です。どんな身を生きているか、化身土に書かれることの方が、実感というか、いいあてられるような、感激をもって接することが出来るのですが、「教え」はそんなわけにもいかない。


教行信証』は「『大経』論」、いいかえれば「『無量寿経』論」。浄土正依の経論という言葉がありまして、「三経一論」といわれる。浄土真宗の経典は浄土三部経と『浄土論』(無量寿経優婆提舎願生偈)、『浄土論』も同じく「『無量寿経』論」。一番の言葉が、「世尊我一心 帰命尽十方 無碍光如来 願生安楽国」(世尊、我一心に、尽十方 無碍劫如来に帰命して、安楽国に生まれんと願ず。)南無阿弥陀仏と同じ意味、南無阿弥陀仏ではじまる。『大経』の言葉に遇って真実に出遇った人の言葉。


どうですかね、先ほどもちょっと申しましたが、正信偈がまず同じですね。それから、どうでしょう、今日讃題にいただいた、『教行信証』総序の文、『教行信証』のはじまりの言葉、どうですか、南無阿弥陀仏でないですかね。


南無阿弥陀仏ではじまる『大経』の言葉に遇って真実に出遇った人の、『大経』の意(こころ)を、『浄土論』は説明しない。親鸞聖人は親切で『教行信証』にしっかり説明する。配布した「総序の文」をみょっとみてみますと

竊かに以みれば、難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり。

穢を捨て浄を欣い、行に迷い信に惑い、心昏く識寡なく、悪重く障多きもの、特に如来の発遣を仰ぎ、必ず最勝の直道に帰して、専らこの行に奉え、ただこの信を崇めよ。

ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな、西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈、遇いがたくして今遇うことを得たり。聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。真宗の教行証を敬信して、特に如来の恩徳の深きことを知りぬ。ここをもって、聞くところを慶び、獲るところを嘆ずるなりと。

だから南無阿弥陀仏だと、これから南無阿弥陀仏のことを書きます、それでいよいよ経の巻に入って行くのですが、南無阿弥陀仏ではじまる、『大経』の言葉に遇って真実に出遇った人の言葉。なんて聞いてきて、こりゃ理解不能だろうと、歯が立たないと思い続けてきた。ところが、そうだったかと、親鸞さんが親切に表現してくれとったかと、この総序の文も、私たちが親しんでいる『正信偈』とそう変わらんことを書いてあったんやなと、ようやくわかりました。
(休憩)