「お盆説話が物語るもの」波佐場義隆(金沢教区冊子より)

お盆や彼岸の冊子を見かける事があるが、わがままなあまのじゃくとしては、たいてい「つまらん」と思う。書いた人の気持ちや作った人の気持ちなどいちいち思いやってなんかいない。

先日所要で金沢教務所に行き、お盆の冊子を手に取る。書かれた波佐場義隆さんを思い浮かべながら読むのだが、これは!気にいったぁ!!うれしくなって何回も読んだ。最近の法事でも軽く注釈を加えて小学生一年生の子をターゲットにして紹介したりした。

「お盆説話が物語るもの」 波佐場義隆 (金沢教区「お盆」冊子より)
イギリスの科学者であったファラデー先生は学生達に母親の涙が入っている試験管を見せながら、「人間の涙は科学的に分析すれば、ただ多量の水分と少量の塩分とに分析されるだけだ。しかし、母親の涙は決してそれだけのものではない。その奥には分析しても分析しきれない、子への尊い愛情というものがあることを諸君は決して忘れてはならない。私達の住んでいる社会は目に見えるものと目に見えないものによって成り立っている。そのうち目に見えるものは大切にされやすいが、目に見えないものはつい忘れがちになる」と話されました。


お盆の説話も同様で、説話に直接語られてはいませんが、その背景にあるものに注目することがとても大切だと思います。


お盆の説話はご承知のように、お釈迦様のお弟子さんで親孝行であられた、目蓮尊者の故事がその由来となっています。目蓮様は亡くなられた母親がどうしているかと、どこの世界でも見通せる神通力で見てみると、お母さんは「餓鬼道」といって、食べるものが食べられない世界で苦しんでいたのです。

目蓮様はびっくりして、お釈迦様にお母さんを救う方法を尋ねられました。そして多くのお坊さんが、安居という雨期の学習期間の修行を終えた七月十五日に、お坊さんたちに心からご馳走して供養されました。その功徳により目蓮様のお母さんは餓鬼道の世界から救われたのです。


後にお釈迦様の十大弟子の一人になるほどの立派な子を育てられた、そのお母さんがなぜ餓鬼道に落ちたのでしょうか。


推測ですが、目連様の母親は、自分のしたいことを我慢して、食べたいものも食べずに、ある時は心を鬼にして、我が子を叱責したり、時には手を上げたこともあったでしょう。心を鬼にしなければ子を育てられない親の尊い愛情を、このお盆の由来の話から感じられます。


私の命は、心を鬼にして代々子どもを育ててきた先祖からいただいた命であり、まさに今その「命」を生きているのです。

仏教の言葉に「広く恩を知るがゆえに供養す」とあります。お盆は、亡くなった先祖、親、先立った兄弟、子どもが自分にかけられたご恩に感謝し、亡き人の供養をご縁として自分自身の生き様を問い返す、大切な仏事なのです。

波佐場さん、やるね♪