小さな虫けらのような私。

今日は『大経巻下』の五悪段の第三番目、(数字は真宗聖典の頁数)

仏の言わく、「その三つの悪というは、世間の人民、相因り寄り生じて共に天地の間に居す。処年寿命能く幾何なることなし。上に賢明・長者・尊貴・豪富あり。下に貧窮・廝賎・ 劣・愚夫あり。中に不善の人ありて、常に邪悪を懐けり。但し婬 を念いて煩い胸の中に満てり。愛欲交乱して坐起安からず。貪意守惜して但し唐らに得んことを欲う。細色を眄 して邪態外に逸に、自らが妻を厭い憎みて、私かに妄りに入出す。家財を費損して、事非法を為す。交結聚会して師を興して相伐つ。攻劫殺戮して強く奪いて不道なり。悪心外きにありて自ら業を修せず。盗竊して趣かに得て、事を繋成せんと欲う。恐熱迫 して妻子に帰給す。心*071を恣に意を快くす。身を極めて楽しみを作す。あるいは親属にして尊卑を避らず。家室・中外、患えてこれを苦しむ。また王法の禁令をも畏れず。かくのごときの悪、人鬼に著さる。日月も照見し神明記識す。かるがゆえに自然の三途無量の苦悩あり。その中に展転して世世累劫に出ずる期あることなし。解脱を得難し。痛み言うべからず。これを三つの大悪、三つの痛、三つの焼とす。勤苦かくのごとし。たとえば大火の、人の身を焚焼するがごとし。人、能く中にして心を一つにして意を制し、身を端しくし行を正しくして、独りもろもろの善を作りて衆悪を為らざれば、身独り度脱して、その福徳・上天・泥 の道を獲。これを三つの大善とするなり。」
仏の言わく、「その四つの悪というは、世間の人民、善を修せんと念わず。転た相教令して共に衆悪を為す。両舌・悪口・妄言・綺語・讒賊・闘乱す。善人を憎嫉し賢明を敗壊す。傍にして快喜して二親に孝せず。師長を軽慢し朋友に信なくして誠実を得難し。尊貴自大にして己道ありと謂えり。横に威勢を行じて人*072を侵易す。自ら知ること能わず。悪を為りて恥ずることなし。自ら強健なるをもって人の敬難を欲えり。天・地・神明・日・月に畏れず。肯て善を作らず。降化すべきこと難し。自らもって偃 して常に爾るべしと謂えり。憂懼するところなし。常に 慢を懐けり。かくのごときの衆悪、天神記識す。その前世に頗る福徳を作ししに頼りて、小善扶接し営護してこれを助く。今世に悪を為りて福徳尽滅しぬれば、もろもろの善鬼神おのおの共にこれを離る。身独り空しく立ちてまた依るところなし。寿命終わり尽きて諸悪の帰するところなり。自然に迫促して共にこれに趣き頓るべし。またその名籍を記して神明にあり。殃苦牽引して当に往り趣向すべし。罪報自然にして捨離する従なし。但し前の行に得りて火 に入る。身心摧砕して精神痛苦す。この時に当たりて悔ゆともまた何ぞ及ばん。天道自然にして蹉跌を得ず。かるがゆえに自然の三途無量の苦悩あり。その中に展転して世世累劫に出ずる期あることなし。解脱を得難し。痛み言うべからず。

(相変わらず)初心者も感激する名訳に聞き惚れていた。わからなそうな言葉が順番にクリアになっていく。一番心ひかれたのが、「盗竊(とうせつ)」、「竊」という字の意味について、「あなぐらから虫がでてきて取る」「窃」に同じく。


他でもなく、『教行信証』や『歎異抄』はこの「竊」の字よりはじまる、「竊に(ひそかに)」。これは、上記に同じく、如来の大悲をおもんみる、おもんみることができないことをおもんみる。小さな虫けらのような私だけれども。虫けらのような私、弘誓に出遇う、如来の前に・・・わが身をとおして「竊に(ひそかに)」身を正す、教えにむきあう、姿勢の問題、教えの前に自分がどんなものか。(講義後の質問の返答メモより)


私はこれまで、「竊に(ひそかに)」はしゃんと背筋をたてるような襟を正すような感覚の言葉として大切なのだと思ってきた。確かに、そうともいえる。その中味は、「教えの前に小さな虫けらがそれをかすめ取るように、教えの前に身を据えるのだと。鱗が落ちたか、はたまた武器を手に入れたか、どちらでもいいくらい、感激した。「小さな虫けらのような私。」ますます親鸞が好きになった。