なぜ『大経』か(メモ)

経巻は、

夫レ真実ノ経ヲ顕サハ則大無量寿経是也。
それ真実の経を顕せばすなわち大経これなり

大経は真実だとはいっていない。真実の教は大経だが、大経は真実とはいっていない。真実の教えは大経で遇うた、『涅槃経』『法華経』ではなかった。私たち一人一人が大経、真実の教えにあっているか。真実の教あきらかになっている、このあとすぐ宗致(いのち)。無量寿経のいのちはおもしろいことに本願を説くこと。「本願」ではなく「説くこと」。体、仏の名号をもって体とする。教巻に書いてあるところ、真実の教は『無量寿経』であきらかになった。経の宗致、如来の本願を説く、経の体が名号。真実の結論が本願・名号というのが、凡夫にはうけいれられないのがあたりまえ。あなたは一体何を信頼できるのか、信頼できるものがあきらかになれば、結論が後からついてくる。


親鸞には大経が信頼できる教え、なぜ信頼できるのか、教巻に書かれる。(私はまずなぜ念仏かということにぶつかったが、その次になぜ大経が信頼できるのかということにぶつかった)名号をもって体とするのところに、何をもって知ることが出来るのか、出世の大事、出世、仏が世に出てくる一大事、仏が仏(覚った人)だとわかるが、凡夫が覚った人わかるだろうか、仏が仏とわかる。知りえないものが、仏の教えをなぜ聞ける、迷ったものが迷ったものの話を聞いても覚ることは無い。例えばスーパーでこんにゃくを買うということも、こんにゃくを知らないと買えないように、仏が目の前にいてもわからない。念仏しなさいと言うても、信頼できない。この確かめのところで、152頁からわずか3頁で決定している。


発起序は、大経の序文。説法が始まる前。今日の勤行のご和讃、

尊者阿難座より立ち(大経和讃一)

注目すべきはここにでてくるアナンは未覚。そのアナンが、釈尊に対して、威光、厳かに光り輝くお体、あなたの体に如来・・・せんごう、仰ぎ見る。そのように問い、釈尊驚かれる。アナンからこのような言葉がでてくることに驚いた。未覚の者から出てくるはずの無い、らしからぬ問い。返問、確認する。「天の声」か、あなた自身「智慧」(慧見)を得たのか、いずれかの宗教的体験を得て、いままでのおまえと違うのか?と問う。


アナンはどちらも否定する。釈尊智慧を見た。アナンは智慧と思っていない。所見―ただみたところ。これだけのことで信頼した。智慧と一方は無自覚のまま。ここに教えに出遇って行く事の難しさと確かさ。


(『法華経』について詳しく知りませんが)『法華経』の方便品『大経』でいえば発起序、説法が始まるまで経緯。序文と正宗分の関係。(『観経』でいえば王舎城。)方便品は「三止三請」釈尊が禅定から覚め、感得していた、仏と仏のみ、唯仏の知見、いいはじめてやめとこう、いっても誰もわからない。舎利弗が「お願いします。」釈尊は、「誤解する、増上慢―思い上がりの人が聞いたら大きな穴に落ちる。舎利弗は「仏の智慧が聞きたい、お願いします。」三回聞くということで、説こう、ということになった。その場に数万人がいたが、そのやり取りについて、五千人が憤慨して帰る。


釈尊は「これで増上慢の人たちがいなくなった」と語った。「四十余年未顕真実」、四十余年顕かになったことがない真実。これで真実教だと間違いない、『法華経』○○学会や○○宗。これは「地盤」の問題。これを持って『法華経』の地盤を強固とする。


親鸞は、9歳から(出家し、比叡山で)『法華経』を中心に修行。ところが訣別する。『教行信証』では二回引用、弥勒菩薩と菩薩の還相回向。なぜ、親鸞は『法華経』と訣別したか、教えの問題ではなく、私の問題。五千人の問題、教えがどうという判断基準以前の問題。私がここにいる自信が増上慢。根拠がはっきりしないから、見極める力があるかどうか問われてしまう。


「念仏です」と念仏しなさいと勧められた時に拒否する、それが私たちの増上慢。私たちは真実のままに聞く事が出来るか。親鸞は『大経』で先ほどの上巻の中で、アナンが未覚者であるということ、無自覚のままに見仏、気付いていない。仏を見ていながら、気がつかないが、仏の方から気付いてくださった。私の方に智慧があるのではなく、対告衆(たいごうしゅう)、無自覚の者を相手にした。


法華経』は真実教、留まる人に説いた。ところは『大経』は無自覚の人に。私には資格が無い。力が無い。その説法を信頼する。無自覚だという事実を根拠に。無自覚は不安定だけれども間違いが無い。例えばどんな地震が来ても、地盤がしっかりしているからで無い。揺れて揺れているままのところに建てる。揺れ動く私は判断しない。


「なんで念仏せんなん」という葛藤が続く。そのために『大経』はどんな内容なのか、『教行信証』は「『大経』論」、いいかえれば「『無量寿経』論」。『浄土論』も同じく「『無量寿経』論」、一番の言葉が、

世尊我一心 帰命尽十方 無碍光如来 願生安楽国

(イコール)南無阿弥陀仏ではじまる。『大経』の言葉に遇って真実に出遇った人の言葉。『浄土論』は説明しない。(笑)『教行信証』は親鸞がしっかり説明する(笑)、『大経』のこころ。
(なぜ『大経』か、終)