真の仏弟子

「真の仏弟子」原文抜粋。意訳のご希望があれば喜んでいたします。↓コメントをください。

また深信する者、仰ぎ願わくは、一切行者等、一心にただ仏語を信じて身命を顧みず、決定して行に依って、仏の捨てたまうをばすなわち捨て、仏の行ぜしめたまうをばすなわち行ず。仏の去てしめたまう処をばすなわち去つ。これを「仏教に随順し、仏意に随順す」と名づく。これを「仏願に随順す」と名づく。これを「真の仏弟子」と名づく。
教行信証・真巻』真宗聖典216

真仏弟子」と言うは、「真」の言は偽に対し、仮に対するなり。「弟子」とは釈迦・諸仏の弟子なり、金剛心の行人なり。この信・行に由って、必ず大涅槃を超証すべきがゆえに、「真仏弟子」と曰う。
教行信証・真巻』真宗聖典245

この245から251まで真仏弟子について書かれる。

「偽」と言うは、すなわち六十二見、九十五種の邪道これなり。
『涅槃経』(如来性品)に言わく、世尊常に説きたまわく、「一切の外は九十五種を学びて、みな悪道に趣く」と。已上
(法事讃)光明師の云わく、九十五種みな世を汚す、ただ仏の一道、独り清閑なり、と。已上
教行信証・真巻』真宗聖典251

「ただ仏の一道、」念仏も神道新興宗教も、ということではない。先生は言った、「真仏弟子」の続きで悲嘆、ここが一番大切なのだ。

誠に知りぬ。悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし、傷むべし、と。
教行信証・真巻』真宗聖典251(前文に続く)

「ここが一番大切、」を握り続けてきた。今も問う。