歯科・小児科へ(「凡夫」といいあてられる姿)

実はずっと歯が痛かったけれど精神的に忙しくて無視していた。今朝ついに痛くてイライラするようになったので急きょ歯科へ行った。思えばGWくらいにたけのこが奥歯にはさまり、気にしないように放置していたが、二日後くらい留まったので歯間ブラシを買って対処した。それから毎食物がつまるようになり歯間ブラシを使っていた。丁寧なケアをしていたとは言いがたい。


保育園へ送り、即歯科へ。名前を呼ばれて椅子に座って気がついた。ん、確か昨日の夜、娘が「お口の中にプチプチがたくさんできたの」って見せていた。もちろん熱はなくて元気だけれど、プチプチは増殖している。変な病気で保育園のみんなにうつったら大変だから、気付いてすぐ園長先生にメールした。歯科治療後すぐ保育園へ。


娘のプチプチは、はじめ下唇裏右に白いのがぽちっとあった。昨夜は下唇裏真ん中にたくさん白いプチプチ。痛くもかゆくもないが、気になるということ。小児科の先生が「手足口病やヨウレン菌ではない。かぶれたのかな?キュウイとかマンゴー食べた?」と言っていた。はっきり言うと、原因不明ということ。母いわく、手を口にいれる姿をよく見るから、畑で遊んでいてかぶれる草でも触って手を口にいれたのかもしれない、とのことだった。


歯科の椅子に座りながら、藤場さんの本に書いたあったことを思っていた。『観経』にてでくる韋提希夫人(いだいけぶにん)について、抱いているイメージは、人によってかなり開きがある。韋提希夫人は、凡夫である私たちの代表として経典のなかにあられている。「王舎城の悲劇」とよばれる物語からのお話。

真宗聖典』の92頁から93頁にかけて「欣浄縁(ごんじょうえん)」と呼ばれるところがあります。牢獄に閉じ込められた頻婆娑羅王(びんばしゃらおう)を助けようとした韋提希夫人が、息子阿闍世(あじゃせ)からそのことをとがめられて、自分自身も宮殿の奥に閉じ込められていく。そういう状況の中で釈尊に救いを求めていくという展開になっていきます。そして、急を知った釈尊が王宮に駆けつけて、韋提希の目の前に現れます。その姿を見た韋提希が泣き叫び、大地に投げ伏して釈尊に救いを求めていくという場面がこの「欣浄縁」です。最後に韋提希夫人は、「私はいま極楽世界の阿弥陀仏のところに生まれたい」と願うようになっていく。いわば『観経』の序文のハイライトの部分です。(略)


しかし、最近、私はここのところを、以前とは少し違った目で見るようになってきました。ただ単に「これで韋提希もようやく阿弥陀さんの教えに出遇う機縁ができた」というような、そういうおめでたい話ではなく、むしろ逆に最も韋提希の凡夫的なあり方が描かれている場面なのではないか。この人はなんとわがままで自己中心的なんだろうという具合に見えるのです。


どういうことかと申しますと、この瞬間に自分の夫である頻婆娑羅王はどうなっていますか。牢獄に閉じ込められて、それまでは韋提希が食べ物や飲み物を運んでいたけれども、もうそれもできなくっています。いつ飢え死にしてもおかしくない状況になっているわけですね。しかし、韋提希はそのことに一言も触れません。私は、もう王に食べ物を持っていけなくなったから、何とかあの人に食べ物を届けてやってくださいとは言っていません。あるいは阿闍世はどうですか。このままではあの子は父殺しという大罪を犯してしまうことになるから、なんとしても止めてくださいとはいいません。この二人の方がはるかに状況は切迫しているのではないですか。しかし、韋提希の口から出てくる言葉は、自分のことばかりです。私はもうこんなひどい世界はいやだ、もっと清らかな世界に行きたい。阿弥陀さんの極楽がいい、どうやったらそこへいけるのか教えてくれ。全部自分のことでしょう。極楽世界へ生まれたいという、どうかすると私たちはこの言葉を、よかったよかったというような、なにかほのぼのとした喜ばしい場面というように感じてしまうようなことがあるのですが、この王舎城では親と子が殺しあっている最中なんですよ。韋提希にとっても人事ではありません。私はもうこんなごたごたはいやだ、楽になりたい。阿闍世なんか顔も見たくない、(略)自分のことしか言っていない。これがそんな美談ですむような話ですかね。


(中略)でも実際のところ、これが、私たちが救いを求める姿なんじゃないですか。なりふり構わず、とにかく助かりたい。どうしたら助かるんだ、教えてくれという時には、人のことなど構っていられない。


そういう姿を韋提希が見事にみせてくれています。そして、この姿こそが、凡夫たる私たちの代表として『観経』に登場しているわけです。

凡夫、ゆきやすき道』藤場俊基述 真宗大谷派名古屋別院発行

歯が痛いとき、娘のプチプチなんか忘れてしまう。「自分だけ」なんであった。