真の仏弟子(しんのぶつでし)とは

(あるお坊さんが言いました)
「真の仏弟子(しんのぶつでし)とは」ということでお話してくださいといわれていったんですけれども、「これで何を聞きたいんですか」「真の仏弟子のなり方を聞きたいんですか」それとも「真の仏弟子というものはどんなものかを聞いてみたいんですか」と。


なんかね、どうですかねそういう感覚は。念仏者とは、真宗門徒とはとかね、なにか思ってみますと、御釈迦さんのところに集まっている人たちがいた。その人達は「真の仏弟子になろう」なんて思って集まった人は、今読んでいる中にはでてきません。みなそれぞれ具体的な苦しみを抱えてどう生きたらよいかわからなくなって、お釈迦様の姿を見、お声を聞いたときに「ああこの人の教えをきいていきたい」といって仏弟子になったんです。ちょっといっていることがわかりますか。


はじめから真宗門徒になろうとか真の仏弟子になろうということはね、何かが違うんではないかと思います。それは「自己確定」でないですか、単なる。だからそういうことでない、何かに自分を確定していこうというのではない。


「推進員として」とか「念仏者」としてとかみんな宣言するんですけれどもこれがどうも私には腑に落ちないんです。正直なところ何か作り上げたようなものを感じる。


そうじゃないんじゃないか、我々が聞きたいことが本当にある、その自分のなかにはたらいてきているものに耳を傾けていくんではないか。何かになっていくということでなしに。