蓮如忌法話07.5.27.

讃題 御文 第五帖 一通

末代無智の、在家止住の男女たらんともがらは、こころをひとつにして、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、さらに余のかたへこころをふらず、一心一向に、仏たすけたまえともうさん衆生をば、たとい罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来はすくいましますべし。これすなわち第十八の念仏往生の誓願のこころなり。かくのごとく決定してのうえには、ねてもさめても、いのちのあらんかぎりは、称名念仏すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

風邪をひきました。ここ一週間くらい、寝食忘れて(いつもは昼寝することも多いのに)遅いときは夜3時過ぎまで起きていて朝は7時過ぎには起きる、ずっと、仕事をしているか根詰めて考えているかのどちらかという状態が続いて、とうとうお医者さんへいくハメになりました。こうなって考えると夜娘がコンコンと咳をした。「どうしたんかな、大丈夫かな」と思った次の日の夜位から今度は自分が咳で寝付けない、部屋にあった風邪薬ののこりを飲むのだけれど咳はだんだんひどくなっていった。熱ないし、体もひどないんですけど、やっぱり先ほども申しましたが、食べんかったり寝んかったり忙しかったりすると、歳おうごとに無理がきかんというか、まあ今回は風邪ということでございました。


なんでそうなったかということを今日は聞いてもらおうと思って来ました。ここにはずっと呼んでいただいているので、自分の今一番大切に思っていることを全然まとまらないのですが、聴いていただきたい。時間の都合もありますから、ちょっと後回しにします。


今日は蓮如さんの御忌ということで、讃題をおなじみの「末代無智まつだいむち」にしました。「末代無智の、」ずぅっと真実に暗い「在家止住の男女たらんともがらは、」在家止住ということを和田先生は現代に生きる限り現代を我として生きるしかないおっしゃた、止住。私も在家でしょう、寺におるといってもそこは家で家族があるから、出家か在家かといえば在家です。
「こころをひとつにして、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、」
「さらに余のかたへこころをふらず、」もう一回しつこく言う。
「一心一向に、仏たすけたまえともうさん衆生をば、たとい罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来はすくいましますべし。これすなわち第十八の念仏往生の誓願のこころなり。」
「かくのごとく決定(けつじょう)してのうえには、ねてもさめても、いのちのあらんかぎりは、称名念仏すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。」これは歎異抄第一章の蓮如さんの意訳なんだと聞いてきた。

歎異抄 第一条 弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず。ただ信心を要とすとしるべし。そのゆえは、罪悪深重煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆえに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえにと云々

「念仏やぞ、」一言で言うたら簡単すぎる話やね。


私は月忌参りに御文をあげる、坊さんによってやり方が違うと思いますが、一月は五帖目一通目、今月は五通目、そのなかに、

信心獲得すというは、第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるというは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。

そういう言葉で始まります。しんじんぎゃくとくと読みますが、信心獲得かくとくと書きます。信心を得るということでしょう。「第十八の願をこころうる」なんかさっき聞いたような言葉でしょう、「南無阿弥陀仏のすがたを」、そういうことをお話していたらきりがないですので、今日はちょっと置いておきます。それからこんな言葉で終わる。

此の義は当流一途の所談なるものなり。他流の人に対して、かくのごとく沙汰あるべからざる所なり。能く能くこころうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

あなかしこというのは、私たち現代でも女性は手紙の最後に「かしこ」と書く、それから「あな」というのは「とても」ということで、丁寧にした言葉です。「本当は行って話さんなん、大事な信心の話やけれども、手紙で失礼させていただきます。」そういう言葉です。そしてこれは当流一途、こんなふうに他流は言わない、
南無阿弥陀仏が不断煩悩得涅槃、これは他流の人には当てはまらない、どうですかね。


ではその他流とはなんだと思いますか。私自身「他流」でないだろうか。とてもでないけれど。唯念仏にして弥陀にたすけられたいといつ思っただろう、
念仏を中心にする生活なんてちっともしていないですね。朝起きてはよせと子どもを叱ってご飯食べて、牛の肉を食べるのになんの傷みもなく、テレビのニュースを唯聞き流して寝る、そんな生活のどこに念仏があるでしょう。こんなところで衣を着て話しているのになんですが、「信心獲得」しましたと、手を上げては申せません。蓮如上人の言葉に「心得たというは心得ぬなり」と言うのがありましてね、じゃあ一体どうすればいいの?とよく思っています。


藤場俊基先生のこの「凡夫ゆきやすき道」を読んでみます。

【救われないものはだれか】真宗の話をよく聞いてこられた方のなかで、ときどき「私は罪悪深重、煩悩具足の凡夫です」というようなことをおっしゃる方をお見受けします。自分で自分のことを煩悩具足の凡夫、悪人だとこういう具合に言うことが、はたして本当のことを言い当てているのでしょうか。


それがわが身の事実だ。仏法を聞かせていただいて、鏡に映った自分の姿だということかもしれません。あるいは、自分自身に言い聞かせるつもりでおしゃているのもかも知りませんけれども、そのことが身にしみた形で自分のことを言い当てているのでしょうか。だいたい自分で決めつけるということができるのか、あるいはそういうことをしてもいいのだろうか。(中略)


歎異抄』の第三章にも「善人なおもて往生をとぐ、いわやん悪人をや」とありますが、浄土真宗のお話を聞いていると、どうも善人よりも悪人が救われるというように聞こえるところがあります。そうなると自分は悪人だという具合に自分で自分を自己規定することが必要であるような気持ちになる。自分自身について、「悪人だとか凡夫だ」ということで、自分で念を押したいというような気持ちがあって。そのように言わずにおれないのではないかと思います。


なんとか救われたいという気持ちが強くあらわれて、そういうことを言わずにおれない気持ちになっていく。それは、聞法してきた中から一つの結論としてたどり着いたのでしょう。たしかに、悪人の自覚とか凡夫であることへの目覚めというようなことは大切なことです。出遇うということからそういうことに気付かされていくということがあります。そのことが身に染みるように、本当の自分の中のそういう姿に気づいていくということがある。私は、そのことはそれで間違いはないと思います。ただ、そのことをたえず自分で自分自身に言い聞かせ、人様にご披露するような形で口にすることが、本当にそれでいいのか。そういうのは、自分には資格がある、条件が整っていると思いたい、あるいは誰かに認めてもらいたいという意識ではないですかね。


教えを聞くということの中には、私たちは、「どんな人が救われるか」あるいは「どうなったら救われるのか」という問いを持っている。それは、ある意味で当然の問いだと言えます。誰もが聞きたいところです。


では一度それを逆に問うてみたらどういうことになるでしょう。「救われないのはどんな人か」と。こんな人は救われませんよというようなことがあるのか。たとえば信心のない人はどれだけお念仏を称えても救われないのかというようなことがあるのか。問いをこのように逆にしてみることで、はっきりしてくることがあるように思います。こういう人は救われないとか、あなたは善人だから救われません、というわけにはいかないのではないか。摂取して捨てないという阿弥陀の本願によって救われるという浄土真宗の教えから考えた時に、こういう人は救われませんという定義があり、もっと具体的にあなたは救われませんというような決めつけは成り立たないだろうと思います。少なくとも、私たちが他人に向って言えることではありません。『観経』では、仏が凡夫を言い当てる言葉であるわけだし、私たちにおいては、自分自身のうなずきという形ではありえても、じぶん自身に言い聞かせ、他人から言われるようなことでない。


ところが、私たちはそういうことができるかのように、簡単に口にする。あんな人間は救われようがないとか、逆に、どうしたら救われるのかと。どうしてもどこかなにか資格のようなものがあるかのような話になってしまう。その資格とは、「信心」という言葉で言われたり、あるいは「悪人の自覚」といわれたりもする。そして、どうしたらそれが手に入るのかと熱心に追求されるわけです。なにか変じゃないですかね。どうもカンニングして答えがわかって、それを丸写しするのと同じではないか。それこそ、一般に誤解されているような意味での「他力本願」です。『凡夫、ゆきやすき道』藤場俊基述 真宗大谷派名古屋別院発行<<
時間があれば後程この続きである、ある会、あるお座での出来事、ある人が「信心が本物か偽者かわかる」というた、ということもお話したいと思っておりますが、あんまり難しい話をずっとするのも聞くのもやーしね。今日は「浄土真宗にふさわしくない言葉」という資料を持ってきました。あちこちで話しているんですが、ここではまだ話したことがありませんよね。私たちは真宗大谷派ですが、これは大谷派という教団をあげてこうしなさい、ということでなくて、この本の著者ですね、こうしたほうがよいのではないかと、それを読み、これは面白いと思って持ってきました。どうかなと思うこともありますが、それを一緒に考えていきたいと思います。資料 「浄土真宗にふさわしくない言葉」 (前半終)


後半記載について今回は保留します。ずっと、仕事をしているか根詰めて考えているかのどちらかという状態、コンピュータという箱の中だけの問題だったはずが、いろんな人を巻き込んで大変なことになった。寝食後回しで考えていたことを最後15分でカミカミで話した。


(後半一部)
どうしてもはじめにお伝えしなければ今からお話しすることはあくまで私の主観です。私が勝手に個人的に思っていることであります。「浄土真宗○鸞会」の話をしますが、○鸞会の批判をしようと思っていません。批判する・ダメだという必要ございません。○鸞会を大切に思っておられる方は大切にされていけばいいと私は思います。・・・


まとまらなくて、しかも話しながら取り乱して泣いた。終わった後、なぜか、「勉強になったわ」「よかったよ!」とか数人の女性から声を掛けられた。「まとまらん話しですみません」と平謝り。今日も精一杯だけど、合格点には遠いなぁ、たくさんの人に支えられ、いろんな大事な事を学んだのに、上手く言葉に出来なかった。しかも蓮如さんが完全にどっかへ行ってしまった。


帰って、夕食が終わって倒れた。三時に起きて今に至る。朝やね。