優しい手紙(メール)

メールで嘆いた。 「私なんかもう五年もろくに聞法会にも行かず最低。」と。「信仰としての『教えの言葉』かあ、みんな覚えているほど、よい脳みそではないしなぁ。しかし、10年聞いてきたことを反芻した5年だったかもしれない。 時間が経ってじわじわということでしょうが。 でも聞いたことの1/10も『教えの言葉』になっていないんだよ、きっと。」 すると、返事が返ってきた。

>  親鸞って、聞法会に行ってたのかな?当然書物は読んでいた事でしょうが、多くの時間は「語る」と云う事に徹していたようなイメージがあります。「書く」事も含めて。
>  責任を持って「語る」、伝える作業の中で、親鸞は「聞いていった」と思ったりもするのですが。。。
>  岡崎別院の輪番さんに  「あなた達は卒業後に法話をする時もあるでしょう。でも、自分の法話を一番最初に聞くのは自分です」
>  と云ってくれました。
>  ○○さん、よく法話に行ってますやん♪
>  よくあれだけ『聞法の場』に足を運んでおられる事だと感心します。

というメッセージをもらって泣いた。

ありがとう。佐野明弘さんに久しぶりに会えたときはやっぱり泣いた。でも離れている気はしなくて、法話の機会をいただくたびに、佐野さんから聞いたこと、和田先生の言葉を思っていたし、それしかなかった。今も。聞いてきたことがあるだけなような気がしています。「聴聞にきわまれ(蓮如上人御一代記聞書)」って聞法会に行かない自分を責め続けて聞法会にいっていないくせにそこに足を運ぶ人たちに語る自分が辛かった。もちろん、「聞名念仏」ということは聞いたことがある。「称名念仏」が「聞名念仏」であると。そして、「自分の法話を聞くのは自分」ということも聞いてきた。でも、そんなことをいってくれた人ははじめてです。ありがとう。(涙)

最近、法話の機会があるごとに「自死・自殺研修会」に言ったときのことを話しているが、あの企画は佐野さんで11月にお会いしたときに参加を呼びかけていただいた。
その後、案内が来た。「人間といういのちにかけれらた本願を聞きひらかれていた宗祖親鸞聖人に出遇える研修会」 を開催するのだという。そして、研修会に参加した。 ◆2/4から2/12まで連載
そして、「自死自殺研修会に参加して」 をあちこち法話で話している。


>  責任を持って「語る」、伝える作業の中で、親鸞は「聞いていった」と思ったりもするのですが。。。
にうるうる。私は「名利心」のかたまりだから、そんなふうに認めてくれる方がおいでると、泣くほどうれしい。「名利心」とは「勝他」―人を押しのけて踏みつけて勝って行こうとするこころ「利養」―自分の利益になることばかりにこころをくだく「名聞」―人から評価されること、自分がどういわれるかが気になってしょうがない。名利心ということも佐野さんや和田稠先生にしっかり植え付けられたのだった。

昨日佐野さんに会った。三ヶ月ぶりくらいだから、泣くことはないけれど、大切な時間を過ごした。とても楽しかった。