自死の罪―不浄観、命・寿―根拠なく定説になっている

今日は用事で佐野さんに会いました。会えたらいろんなことを話したいと思っているのに、いざ会うとダメで、話したかったことを忘れてしまう。でも佐野さんとは話すことより聞く事が楽しいことに今更ながら気付いた。


今日楽しかったのは、まず仏教教団の自死・自殺の罪ということについて、『末法灯明記』(化身本) 「不浄観を聞かん、瞋恚して欲せじ。」ということについて話してくれた。不浄感というのは、死体が腐っていく様子を観て、「皮一枚の中はクソ袋」という感覚で、性欲(女性を抱きたいという気持ち)を無くしていくことなんだそうで、怒って、欲する(求める)ことがなくなる。そして、生きることにも希望が見出せなくなって、自殺することが多発したため、自殺の罪ということがとかれるようになったということでした。佐野さんの脳みそのしわはいっぱいに違いないとよく思う。(参考:「『末法灯明記』やぶちゃん訳」)


そして、「命」「寿」ついて、根拠なく逆が定説になっているが「寿」は字の成り立ちから見るとお年寄りが杖を付いているという意味があり、「有限のいのち」をあらわしている、対して「命」の方は意味が違う、「無量寿を生きる」などという言葉はありえない、ということを『安心決定鈔』の「すこしこざかしく自力になりて、「わがいのち」とおもいたらんおり、善知識「もとの阿弥陀のいのちへ帰せよ」とおしうるをききて、帰命無量寿覚しつれば、「わがいのちすなわち無量寿なり」と信ずるなり。」という言葉あたりで話をされていた。これから私はこれらを反芻していく、そしてひらめいたらまた「わかった、これってこういうことやね」ときく。


ドライブしながら、(ただの移動だけど)お話を聞いて、「それってこういうことだよね」って確認して、たくさんのことを聞いてきた。真剣に聞くから、高速のインターをおりそこねることもしばしばあった。もちろんさっぱりわからないこともたくさんあった。きっかけは思い出せない、お互いに。


帰り際Nちゃんに「忙しい?本山行っている?」と聞かれたから、「3月は本山より法話で忙しかったよ、ずっと佐野さんに聞いたことばかり話してる」といったら、Nちゃんと佐野さんに「すごい」とほめられた。伝えた佐野さんがすごいはずなのに??なんか他人事で相変わらずで笑った。佐野さんは「上手にできたね!」と褒める人ではないし、逆もない。だから褒められようなんて思ったこともない。何にすごいと言われたのか見当がつかないけど、まあいいか。