法話3カルト宗教のCMをみて思ったこと。

(過去の原稿とかぶっています)

(讃題) 二 おのおの十余か国のさかいをこえて、身命をかえりみずして、たずねきたらしめたまう御こころざし、ひとえに往生極楽のみちをといきかんがためなり。しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておわしましてはんべらんは、おおきなるあやまりなり。もししからば、南都北嶺にも、ゆゆしき学生たちおおく座せられてそうろうなれば、かのひとにもあいたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。


今日の讃題は歎異抄第二章です。
みなさんようこそお参りくださいました。6日から○○寺さんの永代祠堂経ということで、呼んでいただいております。昨日は娘がねずみみたいがに走って、ここに座って、黒板に絵を書いてとお騒がせいたしまして、誠に申し訳ございません。帰りしなに「明日また来たい」というので、坊守さんに「明日は本堂へいきません」と誓わせましたが、うちのお兄ちゃんの風邪が少しよくなったので、今日は(ここから近い)お風呂に連れて行ってもらうことになりました。昨日は法名というのは仏弟子の名をいただくということであるとお話していたのですが、そのお釈迦様はわが子を「ラゴラ」と名づけた、これは「自由を阻む物」という意味であるそうです。若い頃からそういうことを聞いておりましたので、自分は「親バカ」にはならないだろう、と思っていましたが、なんが、やっぱり一人っ子の親というのは甘いもんですね、一人じゃ寂しいかなぁとついつい思います。すみませんでした。


さて、去年は記録的な大雪だったけれど、今年は暖冬で、あんまり雪がふらんかった、ところが三月のはじめちょうどうちの祠堂経にどさっと雪が降るもんで弱りました。その後、お話に呼んでもらったZ寺さんも降ったし、S寺さんでも降ったし、今年は雪女だなぁと思っておりましたが、Kさんへお話に行ったときは、地震になりまして、○○寺さんではどうか何もないようにと、思っております。びっくりしましたね。月忌参りに行くがんに一階で化粧をしておったんですが、ぐらぐらとなったので、一目散に娘のおる二階の部屋に走りました、パソコンの机の下に娘に被さるようにして、「この子のいのちだけは自分に引き換えにしても守らねば」と強く思いました。「本堂の阿弥陀さん大丈夫やったやろか」と思ったのは地震がおさまってからで、「本尊」が何かわかりました。曲がりなりにも母親なんだなー、と思っていました。


さて、昨日ちょっと、釈迦如来は教主、阿弥陀如来は救主、ということをいうとったんですが、昨年このご本尊についてお話をしていましたが、聞いていない方のためにも大切なことなので、またお話します。このご本尊は、蓮軸から光が放たれる、像である。蓮華、蓮(はす)の花の軸(棒のとこ)からの光、なんだと、光として届いた名号 南無阿弥陀仏が形になってあんなふうに見える。


「名号即仏身」という言葉があります。仏身も光も等しい、私のところに光が届いた「信心」です。信心が南無阿弥陀仏が形になってあんなふうに見える。(棒(ひかり)がいっぱいあるのは)十方衆生にも同じことが起こる。帰命尽十方無碍光如来といいますが、十方衆生にも無碍の光が同じことが起こる。仏がオーラを放っているのではなく、一本が阿弥陀さんであると同時に、十方衆生に光が放たれている。そういう像なのです。
(中略)

では、南無阿弥陀仏の教えとは何か、今日はある「カルト教団のCM」から考えてみたいと思います。まず、どういうものがカルト宗教か。(←「玉永寺こころおきらく日誌」より) 自分達だけが絶対に正しい。他の人は地獄に落ちる。他を極端に否定する。情報遮断。否定的な人間からの情報を遮断するように考え方を操作されている。新聞もウソと教えられ。否定するものの情報は一切聞こうとしない。勧誘。信者開拓を義務的に行う。極端に行う。
抜けられない。そこが極楽であり、そこを抜けるのは地獄。恐怖感が植えつけられている。脱会自由といわれているが、自分の中の悪魔を押さえるように人格形成されている。

マインドコントロールという言葉を聞いたことがありますね。1980年代。統一教会事件。山崎浩子が記者会見で言った言葉なんだそうです。洗脳とは違う。洗脳というのは薬物や暴力によるものであり刑事罰を受ける。マインドコントロールは罪に問われない。同じことを何度も繰り返し、外界遮断し、何時間も勉強会し、すし詰め状態で人格を変えていく。なぜ、カルト宗教は悪いのか。入り口で嘘をついて勧誘している。宗教色を最初は見せない。そういうことを勉強しました。


「パワー・フォーリビング」のCMについて(中略)


カルト宗教に入っていくシーズンは大学に入ったばかりの今、知らない人だらけで親切な先輩に声を掛けられ研修会に行ったら、オウム真理教だったという。でも10人勧誘しても残るのは3人。7人は「なんかおかしいぞ」と考えて入らなかった。私たちは若者のしようとしていることをとめることはできないかも知れない、でも「なんかおかしいぞ」ぞと、立ち止まって考える力を私たち一人一人が伝えることは出来るはずです。
もし「パワー・フォーリビング」の本が家にあったら、こんなに「カルト的で情報が遮断されていて危ない」といわれていますから、周りの人に相談することも必要なのかもしれません。

(休憩)(以下略)

追伸:最後に『日暮し正信偈』「屁にもならぬ光体験」を紹介しました。好評でした。