メモ「浄土真宗の仏事」

真宗本廟とは何か、それは儀式をする場です。儀式とは御仏事(おんぶつじ)です。『蓮如聖人御一代記聞書』に「仏事は讃嘆(さんだん)・談合(だんごう)にきわまる」という言葉があります。もっと言えば、それが真宗の儀式です。「讃嘆」というのは、褒め称える感動する。感動なくして褒める言葉はでない、何を讃嘆するのかと言うと、仏の徳、宗祖の徳を讃嘆するのです。「讃嘆」とは1.勤行2.法話がそうです。「談合」というのは、1.示談(じだん)2.改悔(がいけ)


1.示談(じだん)とは、毎月のお講や家庭のお内仏の前で、同行同士が世間のことをきっかけに、仏祖と自己、あるいは法と機、自分は仏法とどう向き合っているか、示した。ものを言い合った、それを示談という。
2.改悔(がいけ)とは、特別に報恩講の時だけ。親鸞聖人の御影の前に示談する、自分のギリギリのところを申し上げる。悔い改める、ということは、さらけ出すことによって、自分の殻が破れる、それを改悔という。反省することでなく、自分の作った殻を、一年に一回ぶち壊すことが改悔なのである。


仏事が讃嘆・談合で、もっと言えば、それが真宗の儀式だと、讃嘆は勤行・法話、談合は、示談・改悔であると、私なんかは、示談・改悔なんかは得意ですが、ことに、お勤め、あちこちの寺の報恩講で、正信偈やら和讃やらあげるのがすごく苦手ですが、いろんな方にお聞きすると、お勤めの方が、楽て言うたらなんやけど、決っとることをするだけやから、法話することのほうが大変や、という方もおいでる。


ところが、これは不二であると、讃嘆・談合は二つのものでないんだと、これらは、一つのことから二つの相を持っているというくらいのことで、これも大事、あれも大事、ということでない、「不二」二つなんだけど、一つ、出所は一つなんだ、従如来生じゅうにょらいしょうという言葉があります。(証巻280 御自釈)阿弥陀如来が娑婆に現れた、それを様々にあらわされている、勤行・法話、示談・改悔 みんなそうなんだ、語り合いを仏事とする、そういう教団は他にはないんです。

太田浩史師 同朋会館講義より