カルト教団と浄土真宗の教え(後半)

祠堂経③07.3.25.後半

トラックバック:どういうものがカルト宗教か。(「カルト問題研修」玉永寺こころおきらく日誌)
先月数百万人の人生を変えたという本「パワー・フォー・リビング」を無料で進呈するという謎めいたテレビCMが、流れました。日本ではまったく知られていない米フロリダ州に本部を置く「アーサーS・デモス財団」という団体が、10億円という広告費をかけて、これはトヨタなどトップ企業と同レベルの広告費なんだそうです。全国紙の大半に全面広告が出され、折込や雑誌広告にも大展開、テレビでも何度も見ました。


秘密主義を貫く財団、情報が遮断されている。だから危ないのだ!(カルト的)財団関係者には、厳しい秘密保持が求められ、日本でも秘密主義は貫かれる。財団の住所(東京都港区南青山のビル)を訪ねても、呼び鈴に応答はない。本の発送を頼む場合にも連絡先はない。「資料をお送りします」と応対するのみで、秘密に包まれている。ドイツでは「宗教色が濃すぎる」としてCMが放送中止となり、日本のテレビ局でも対応は二分している。無宗教者のために83年に書かれた「パワー・フォー・リビング」英語版は、134ページの冊子に例え話を織り交ぜ、「神はあなたを愛している」「人類は罪深い」「何人たりとも神を受け入れねばならない」などと訴える。聖書を読むよう勧め、妊娠中絶や喫煙、同性愛には反対の姿勢。


何気なく「cancam」という20代の女性雑誌を買って見た。この「パワーフォーリビング」の広告が載っていた。ミュージシャンのm-floメンバーの写真とメッセージ。

何のために生まれてきたのだろう。
何をすべきなのだろう。
(中略)
そして、あの日、僕は神を信じた。
あの日がなければ、いまも、人生に答えを見出せないでいた。
(中略)
今の僕には、心から信じられるものがある。
人生の答えも、いつも、ここからやってくる。
僕はこの本のメッセージで、人生の答えを見つけました。

<何のために生まれてきたのだろう。何をすべきなのだろう。>
という問いは、若い人の歌詞にもよくある。その大きな問いに目覚めるように気がつくときがあると思う。


<そして、あの日、僕は神を信じた。あの日がなければ、いまも、人生に答えを見出せないでいた。>
それを真宗では光明体験(こうみょうたいけん)とでもいうのだろうか、あるいは「回心えしん」というか、「回心ひとたび」(回心は一度)といいながら、回心はであい続けることだと和田先生は言った。わかったといって掴んだりしがみついたりすることを言い当てられた。もっとはっきりいうとこれを否定した。最近買った『日暮し正信偈』(東本願寺出版部 著者亀井鑛こう)では、光明体験を「へでもない」。


また佐野明弘さんは「迷いが深い」のだと、私たちはこうして聞いてはいるけれども何が聞きたいのか、逆に言うと聞かねばならないものがある。今日まで聞いてきたけれどももっと深い言葉が聞きたいということがあると思うんです。そういう自分たちの思いに先立つ何か宗教心というか、そんなものを一緒に考えていくことが出来ないかなと思っています。


答えをつかんでそれでもって一生涯やっていこうとするものが欲しいんですねぇ。これ一本でいけるぞと。何が来てもこいつで、あの時わかった喜びで乗り切っていこうと思っているんですよ。


ところがね、そうはいかないんですよね。その時わかったことでは終えられない、それは迷いが深いからね。人間は苦悩から去ることが出来ません。だけどその苦悩っていうことが、また新たなるいよいよ深い言葉を聞いていくことになるわけですけれどもね。だからどこまでも命のある限り聞いていきたいものがあるということでしょう。


思えば問題が深刻真剣なときは、「あの時わかった喜びで乗り切れた」ことは、ない。それを迷いの深さという、生きることは迷いが深い。しみるなぁ、とのんきな私は思った、どうですかね。


さて、最後にもう一言、
<今の僕には、心から信じられるものがある。人生の答えも、いつも、ここからやってくる。僕はこの本のメッセージで、人生の答えを見つけました。>
という言葉について、信じられるもの、私は、罪悪深重、煩悩熾盛、内懐虚仮、名利心、中途半端。もちろんこれは真実の南無阿弥陀仏(法の深信ほうのじんしん)から知らされる機の深信(きのじんしん)の内容なんだけれども。ああ、おちつけない、ということもあるな、佐野さんは迷いが深いと、迷いが深いから苦悩から去ることが出来ないとおっしゃっていた。

そして一番大きいのが、和田先生がのこしてくれた言葉、「妄念、妄想」こんな大事なことってないな。「正しいこと」で傷つけなくていいものね。なにか違うものになってたすからなくていいのだと思う。嘘やまやかしや偶像崇拝でない真実を求めたい。真宗というのは真を宗にする、真実を中心にする、ということですね。人生の答えかぁ。生老病死の他にあるのかなぁ。で、いるのかなぁ。そんなふうに思いましたが、どうですかね。


浄土真宗を一言で言うなら、「唯念仏」です。ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし。そして今日讃題にいただきました、ただ念仏のみぞまことにておわします。


さあ、だんだん時間も迫ってまいりました、最後にはじめの話の続きをします。真宗聖典の勉強をした。真宗の寺の門をたたいた。10件目の寺、老僧と毎日朝のお参りを勤めて本を貸してもらった。京都の専修学院へ行った。専修学院で和田稠先生の言葉にであった。


秋に報恩講に初めて和田先生のお寺へ行った。先生のお話される姿、何をお話されているかは難しくてなんもわからなんだですけど、ああ何かとても大切なことをおっしゃっているんだ。これはこれからどうしても聞かんならんと思ってね、そして帰ってきたんです。その帰ってくる途中にひとつ真宗で一生聞いていかねばならんというご縁をいただいた。それは何かというと、それまでは、学んでいって助かる、何とか助かるということを目指しておったんです。これで良しと命終えていけるような、そういう心境が開けることをそれだけをひとつ願って修行もし、勉強してきた。


専修学院で学んでいるときも、念仏するのも、してみるんだけれども空しくて仕方がなかった。念仏してもね、しておるその口先からもう空しい。もっと言うと、念仏せにゃならん、念仏がでるようにならなければならんと思って無理して言う。もっと言うと嘘ついているような気持ちだったんです。


何か、お前は本当に如来を信じているのか?その念仏はいったい何のつもりや?と。(ずっと自問自答していた。)そういうことで自分がこれで良しといえる心境を開きたいとずーっと思っておったんです。ところがその先生のところから帰る途中の電車の中で、やはりひとつ何か、からだを突き抜けるような思いで「そらごとたわごと」という言葉が響いていた。そしたらね、ひとつだけはっきりした。間違いのないこと、真宗においてひとつだけはっきりした。それが一生真宗を聞いていこうと今思う。明日のことはわかりません。今度キリスト教になるかもわかりませんがね。
(今、念仏申さんと思い立つこころの起こるとき・刻―「今」の大切さ)


生涯聞いていかねばならない本当に大切なはっきりしたこと、間違いのないことに気付かせていただいた。それはなんだと言ったら「なんぼ聞いても分かっても人間は迷って命終えるものなのだ」こんなこと聞いたら嫌になるでしょ(微笑)、心配せんでも悟りが開けたりしないのです。迷ったまま命終えなければならない存在なんです。しかも迷ったままということは中途半端に命終えなければならないということです。「中夭ちゅうよう」と言いますでしょ。これで良し、もうやるべき事は全部終わった、ということでなしに(ということがなく)。どこまで生きても何年生きても生ききれないようないのちをいただいておる。そういうことが一つはっきりした・・・


今日の讃題は歎異抄後序、まことに如来の御恩ということをばさたなくして、われもひとも、よしあしということをのみもうしあえり。如来さんのことをほったらかして、いいとか悪いとかばかりにこころをくだいている、聖人のおおせには、「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり。そのゆえは、如来の御こころによしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、よきをしりたるにてもあらめ。如来のあしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、あしさをしりたるにてもあらめど、如来さんと同じほどよし・あしを知るならわかるだろうが、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします