カルト教団と浄土真宗の教え(前半)

祠堂経③07.3.25.前半
(讃題)まことに如来の御恩ということをばさたなくして、われもひとも、よしあしということをのみもうしあえり。聖人のおおせには、「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり。そのゆえは、如来の御こころによしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、よきをしりたるにてもあらめ。如来のあしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、あしさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」とこそおおせはそうらいしか。


讃題は歎異抄の「後序」です。今日はちょっと変わった自己紹介からはじめます。私はお化けが怖いんです。うちの居候くんは「ホラー映画」というて、恐ろしい映画が大好きで、私が恐ろしがるもんで、喜んで見せたがる、私はイヤけれども、息子がうれしい顔して「かあちゃんも一緒にみんか」みたいに言われたら、ついつい断れなくて、観る。ほしたら恐ろしてトイレに一人で行けなくなって、娘についてきてもらいます。夜寝る時もしばらく怖くて電気消して寝れんのです。だいたい一週間です。


彼が問うた、「あんたは、幽霊はいないと思っているのに、なんでそんなに怖がるのだ?」私はいいました。「私が霊を信じないのはウルトラマンがいるとか阿弥陀仏がいるとかそういうレベルで、それらはみないないと信じているのです。阿弥陀さんは方便だから、本当はいない、でも、いないから怖がらない、夢見ない、望まない、求めない、たのまない、というのとは違うのです。」そういう話をしておりました。

(佐野さんの紹介)さてですね、ある方がくれた。こんな紙をいっぱいね、こんなことが書いたありました。高校くらいから、どう生きてよいやらわからなくなってしまった。非常に迷っておったが、どういう縁か仏法を聞こう、それで自分の迷いを解決したいと。中学の時に修学旅行でみた仏像がずっと頭の中にあった。

それで迷って迷いが高じて、何の用もないのに京都に流れてきてね、それでしばらくじーっとしておった。牛乳の配達をしたりしてね。なかなか道がはっきりせんもんですから、鴨川を歩いていた、鴨川の下にはダンボールにくるまっておる人がおった。金沢では少ないですけれどもね、京都は今では大勢おいでます。まだその頃は少なかった、何かその仲間に入れてもらおうかなって思っておった。だけどもう一つ、やはり自分の悩みをもう少し直接につかみとって解決したい、という思いがあって、思想とかそういうことを学ぼうと思うようになった。そこでお寺で下宿させてもらう、そのお寺は禅宗のお寺でした。


真宗親鸞聖人の教えを聞いていこうか、禅宗で行こうか、迷った。禅宗は座禅に行っているから、これでいい、では真宗の方はねと、それで本を買って来て読んだ。大経というのが真実のお経で、そこに阿弥陀の本願が説かれている。これを真実の経として仰ぐのが真宗だと言うので、大経を訳してあるのを買って来て読んだ。
ところが、(静岡出身の方なんですが、)20歳になるまで人が念仏をするのを聞いたことがなかった。周りにお寺もお参りもないから、お坊さんを見たのはおばあちゃんの亡くなった時一回きり、お話一つしないで帰っていったということです。


それで話を戻して、大経を読んでみたらですね、昔々法蔵という方がおられて、世自在王仏に遇うて非常に感激して、・・・(正信偈はじめ)法蔵菩薩がすばらしい仏さんになったご縁で自分の中に願いが起こってきた、そしてその願いを自分の言葉で表現するのに五劫(ごこう、時間の単位、長い時間)の時がかかった。そしていよいよそのときが来てね、世自在王仏に「さあみんなにおまえの願いを述べなさい」と、そこから法蔵は48願をずうーっと説いていかれる。


それを読んでああそうか、さてこの法蔵という人はところでいつの時代の人やろうなぁと思った。皆さん知っていますか?お釈迦さんはだいたい2500年前にインドに生まれた方ですね。法蔵はいつの人や?はてなぁと思って、調べた。そうしたら、そんな人はおらなんだ。ちょっとびっくりしましてね。ってことはこの法蔵の話も阿弥陀仏というのも架空の話かなと思った。
ご存知でしたか?


これは私にはこれを信じなさいというのはほとんど「ウルトラマン」を信じろというのと、あまり変わらんなと思いましてね。これは無理かもしれない。一切理論を捨ててこの話を信じろといわれても、そんなに自分はめでたい人間ではなさそうや。これはちょっと難しいなと。


それに対して座禅の方はわかりやすい。効果もでる。その方は7年禅宗の坊さんをします。修行が厳しくて(からだの弱い人です。)4回気絶した。やっぱり食べないし寝ないし、絶対長袖なんか着させてもらえない。薄着で布団は一枚を半分に折って寝る。一人畳一枚にみんな一緒に寝る。まあそれをやってはじめはもう死んでも良いと思った。このまま他のものの命をとって訳もなく暮らしているよりは、こうやって道を求めていってこのまま死んでもよいと思った。


実際に「雲水」というのは行く前ににちゃんと自分が道場で死んでも絶対に文句を言いません、と書いて頼んでいく。こうやってなんやらかけておられるんですが、そこの裏側に、封筒に一万円入れてある。「何でですか?」と和尚さんに聞いたら、「お前の死体の処分代や」といわれて「はい、わかりました。」と。


それでもだんだんね、お腹がすいたとか痛いとか我慢をしたら悟りが開けるなんて思えなくなって、他の道場へいこうと、先生によって指導が違うそうです。そうしたら先輩が、「お前にこの本をやる」といってくれたのが『真宗聖典』でした。そして下宿を借りて『真宗聖典』を読み始めた。真宗を学ぼうと思った。禅宗を辞めるつもりはなかったけれど、大分疲れていたということもある、どんな修行もいらない、っていったらね、なにか急にほーっとしてしまって、これで助けてもらえるやろうかって思ったんですよね。


そんなことが書かれてあった。また後で続きをお話しするつもりです。どうですかね、昭和46年生まれの私はこんなに真剣に道を求めたこともないしね、生きるということの悲しみもなかったんですよ。なに不自由なく育ってきた。なんか情けなくてね、なんて中途半端なんだって、嘆いたらね、「それぞれの業のところで聞くんです」とおっしゃった。これをしたらえらいとか、尊いということではなくて、それぞれの業、背負って来たもの、遇うたこと、そういうところできくんですと。そういわれたことを思い出していました。


ちょっと余談というか、補足、阿弥陀仏は方便で、ウルトラマンを信じろというのと変わらない、というわけですが、このご本尊について、昨年、本山で聞いてきてすぐお伝えしました。
『大無量寿経』の浄土観であり、「茎より出でてもとに蓮の花と葉を刻む」そういう像、
蓮軸から光が放たれる、像である。蓮華、蓮の花の軸(棒のとこ)からの光、なんだと、光として届いた名号 南無阿弥陀仏が形になってあんなふうに見える。
「名号即仏身」という言葉があります。仏身も光も等しい、 私のところに光が届いた、信心です。信心が南無阿弥陀仏が形になってあんなふうに見える。(棒(ひかり)がいっぱいあるのは)十方衆生にも同じことが起こる。帰命尽十方無碍光如来といいますが、十方衆生にも無碍の光が同じことが起こる。

仏がオーラを放っているのではなく、一本が阿弥陀さんであると同時に、十方衆生に光が放たれている。そういう像なのです。

わが信心、御同朋、御同行の信心を同時に表すものが本尊なのです。如来のところからいたり届いている姿を本尊、ゆえに、浄土真宗の本尊を方便法身の尊形といいます。皆さんのお内仏、御絵像であれば、本山よりいただいたものであれば、かならず方便法身の尊形と書いてあります。蓮の花から放たれた法光の仏、法光が仏。(休憩)