少年の苦悩(後半)

祠堂経法話①07.3.23.後半
「同朋新聞」というのがありまして、この一から三面を今、佐野さんが担当しておりまして、その名も「人間といういのちの相すがた」という連載なんですが、人間としてあたりまえに生きているけれども、その与えられたいのちをどのように生きているだろうか、人間としてのいのちの営みはさまざまな相をとって社会に映し出されています。さまざまな人をとおして、いろんな方にインタビューして、人間そのものを考え、「今、いのちがあなたをいきている」ということをともに学びたい。


そのなかに、僧侶であり、カウンセラーである、三橋尚伸(みはししょうしん)さんという女性が紹介されていました。

「現代は、人を自分をゆるせない時代」であると、
カウンセリングを受けている、10歳以下のこどもたちが「私はいきてていいの?」という悩みを抱えている。それはその子だけの問題でない、そして、その子と親、だけの問題でない、
実は親のさらに親の問題という深いものである。


自分の子どもを「その子のままでいい」というふうに育てていない、
そうして育てられた子が、親になったとき、同じようにしか出来ない、
それが、今の子に出てきている。
この子が悲鳴を上げたことによってはじめてこの親子の連鎖問題が見えてくる。


子どもによっていろんな資質があるから、敏感な資質を持っている子の中には、愛されるためには親の要望に従うことでしか、自分は生きていけないんだ、と思ってしまう子がいる。そういう子はある時までは「いい子」でいる。「いい子」というのは、親にとって扱いやすい子、社会にとって都合のいい人、です。


それは突き詰めて言えば服従するということです。他者の要求に服従し、そうすることで依存していき、自分で考え、感じて、表現していくことを「いけないこと」だと学習してしまう。それで自分の感情を無意識になくしていく。


それがある時「私は一体なんだったんだろう、」「本当の私はそんなんじゃない」と自分に気付く。でも、気付いた自分の姿は、親や他者が望んでいる自分ではない。でも、さんざん服従しかしてこなかったから、気付いたけれども、どう生きたらいいか、考える能力も感じる能力も埋もれている。


けれども、ある時から自分で考えろと要求される。考えることを止めて来たのに、今になって考えろといわれる。自分で責任を取れといわれる。やらせてこなかったことをある時から急に要求される。するとパニックになってキレるんです。それは、その子であることをずっと否定されて育ってきたからだと私は思っています。その子であることを許されていない。でも、その子はどうやってそれを表明したらいいかを学習していないから、人を傷つけたり、自分を傷つけたりという方法で表出(ひょうしゅつ)してしまうんだと思うのです。


「自分の存在を肯定できない、自分が生きていいと思えない」私は、それが今の病理だと思っている。そういうかかわりをしてきた親や他者が、なぜ自分が、この子をこの子として認めてやれなかったのか、そこを問い返すことからしか始まらないと思う。


子どもの中に親自身が映し出されることが大切で、親自身が自己肯定できていないと、子どもまで否定してしまう。自分を許していない人は他者も許せなくなるんです。


「ああ、この子はこういう子なんだ」「この子であっていいんだ」という許しが出れば、救われていくと思います。今は厳しさが足りないのではなくて、許しが足りていない。ありのままを許されていないのだと思う。


ゆるされない世界では生きていけない。許しがあって始めて、自分で責任を取る、生きる力というか、意欲が出る。今子どもに必要なのは、「生まれてきてよかったんだよ、私はあなたが生まれてきてくれてうれしい、大好きだよ」と伝え、抱いてあげること。生きていることは怖くないと身体でわかってもらうしかないですね。


そういうことが書かれておりまして、私のところの20代の青年も「死にたい、この世で一番、自分が死ねばいいと思う」と、言うので、泣きながら何度も読みました。それから「私はあなたが生まれてきてくれてうれしい、大好きだよ」と何度もいってきましたけれども、やはりなかなか、なかなか生きる力はでないけれども、そういいながらもまだ生きておってくれています。


さてですね、三橋さんにとって真宗とは何か、という問いに対し、
「ゆるし」という実感なんだと、おっしゃいました。どうですかね、先ほど、「機」ということで、親鸞聖人は人間を問うたんだと、虚仮不実、貪瞋邪儀(とんじんじゃぎ)、奸詐ももはし身にみてり 無慚無愧、小慈小悲もなき身、そういう、愚禿悲歎述懐和讃の言葉をお伝えしました。こんな言葉が続きます。

無慚無愧のこの身にて まことのこころはなけれども
弥陀の回向の御名なれば 功徳は十方にみちたまう<第四首>

恥じる心が無い、真のこころは(私には)ないけれども
阿弥陀さんが回向してくださっている、
わが名を称えよと呼びかけてくださっている、
弥陀、回向のみ名(南無阿弥陀仏)なれば、功徳は十方にみちる

小慈小悲もなき身にて 有情利益はおもうまじ
如来の願船いまさずば 苦海をいかでかわたるべき<第五首>

私の優しさは末とおらない、「たすけとぐることきわめてありがたし」という言葉もありますが、なかなかたすけることが出来ない、
如来の願船がなかったならば どうやってこの苦海、人生を渡れるだろう。


他のもんになってたすかるのでない、煩悩具足のまま、不断煩悩得涅槃、
煩悩を断ぜずして涅槃をうるんだと、それが浄土を真とする、親鸞聖人が
人生の中になさねばならないものを見出した教えです。


8歳で、得度し、僧侶になって、修行のために20年間比叡山で勉強した。
山を下りて、法然上人に出会った、南無阿弥陀仏の教えに出会ったんです。
ああ、これで生きていける、死んでいける、

弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず。ただ信心を要とすとしるべし。
念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。

そういうことですね。