少年の苦悩(前半)

祠堂経法話①07.3.23.前半
「人間といういのち相すがた」に聴く、それは宗祖親鸞聖人に遇う、聞くということになると思います、なぜか、親鸞聖人は人間を問うた。それを機、機を明らかにする、と聞いてきましたね、罪悪深重煩悩熾盛の衆生というた、ね。
和讃では、(愚禿悲歎述懐和讃の中に、)
真実の心がない、虚仮不実のわが身、清浄の心もさらにない<第一首>
外儀のすがたはひとごとに 賢善精進 現ぜしむ
外観は賢い、善い人、精進・がんばっとるひとに見えるようにしとる、
ところが中身は「貪瞋邪儀おおきゆえ」
貪り(むさぼり)、瞋(しんに)いかり、です。邪よこしま が多い、
奸詐ももはし身にみてり<第二首>
無慚無愧のこの身、小慈小悲もなき身、
恥じるこころも、優しさもない、
そうおっしゃっています。どうですかね。


ある小児科の先生が(真宗大谷派僧侶 梶原敬一氏)
「死にたい」というのは小4、10歳くらいから、子どもの中に自分を殺してしまわなければならない、という感情がおこる。学校に行くようになってから、死にたいと思い始める。いじめにあうということがあるが、いじめが無くても、ある。ということです。

仏教が教える「穢土えど」は、人間が生きること(自体)が困難であると教える。生まれたところが穢土である。私たちの生きているところです。
浄土は私たちの生きているところではない、
浄土によって穢土が知らされる(てらされるともいいます)のですね。

穢土とは何か、それは知恵を持つということ。
そして仲間を持つことなんや、仲間に他ならない。家族も仲間であると、子どものときは家族だけれども、それがある程度歳をとると仲間になる。それは教育をとおさなくても知恵を持ってくると現れて、そこに世間が現れる。
仲間によって現れる世間は人間関係によって作られていく。世間に生きるか世間から出るか、出るということは死なんや。
「世間に殺されていく、」ね、社会が原因で死ぬ人があるというが、社会だけの問題ではない。死ぬ人も世間にどっぷりつかっている。
そして、こう続けた、
生きとる、いいこと無い。世間の中でいいことは無い。いいことを求めること自体が難しい。


小児科だから、少年がたずねてくる、ある少年が「いいこと、楽しいことが無い、辛いことばかり、ずっと辛い」といった。
先生は、早く気付いてよかったと私は思う、とおっしゃいました、

「世間の中に目的が見つからない、仲間や友達に裏切られ、生きとって何の意味があるのだろう」少年が訴えた。先生はこたえた、「いいことないかもしれん、そうやな。生きてみんとわからん。」実はこれは真剣な言葉だと思います。


親鸞聖人90年生きて楽しかったか、楽しくは無い。楽しいまま過ごしたかったらわざわざ(知っている人や支えてくれる人がほとんどいない)京都に来ないはず。親鸞はなさねばならないものを人生の中に見出した。楽しいとか面白いでなく、なさねばならないことを見出した。


そのなさねばならないことって、なんだと思いますか、私たちはよくよく聴いてきたはずなんですよ、私にとってはこの「機」です。
しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。
煩悩具足のわれらであるからこそ、他ではどうにもならん、
他力の悲願は、わが名を呼べよと、
かくごときわれらがためや、ということでしょうね。