そらごとたわごと

祠堂経法話満座07.3.21.
さあ、だんだん時間も迫ってまいりました、最後にはじめの話の続きをします。


秋に報恩講に初めて和田先生のお寺へ行った。先生のお話される姿、何をお話されているかは難しくてなんもわからなんだですけど、ああ何かとても大切なことをおっしゃっているんだ。これはこれからどうしても聞かんならんと思ってね、そして帰ってきたんです。その帰ってくる途中にひとつ真宗で一生聞いていかねばならんというご縁をいただいた。それは何かというと、それまでは、学んでいって助かる、何とか助かるということを目指しておったんです。これで良しと命終えていけるような、そういう心境が開けることをそれだけをひとつ願って修行もし、勉強してきた。


専修学院で学んでいるときも、念仏するのも、してみるんだけれども空しくて仕方がなかった。念仏してもね、しておるその口先からもう空しい。もっと言うと、念仏せにゃならん、念仏がでるようにならなければならんと思って無理して言う。もっと言うと嘘ついているような気持ちだったんです。


何か、お前は本当に如来を信じているのか?その念仏はいったい何のつもりや?と。(ずっと自問自答していた。)そういうことで自分がこれで良しといえる心境を開きたいとずーっと思っておったんです。


ところがその先生のところから帰る途中の電車の中で、やはりひとつ何か、からだを突き抜けるような思いで「そらごとたわごと」という言葉が響いていた。そしたらね、ひとつだけはっきりした。間違いのないこと、真宗においてひとつだけはっきりした。それが一生真宗を聞いていこうと今思う。明日のことはわかりません。今度キリスト教になるかもわかりませんがね。


生涯聞いていかねばならない本当に大切なはっきりしたこと、間違いのないことに気付かせていただいた。それはなんだと言ったら「なんぼ聞いても分かっても人間は迷って命終えるものなのだ」こんなこと聞いたら嫌になるでしょ(微笑)、心配せんでも悟りが開けたりしないのです。迷ったまま命終えなければならない存在なんです。しかも迷ったままということは中途半端に命終えなければならないということです。「中夭ちゅうよう」と言いますでしょ。これで良し、もうやるべき事は全部終わった、ということでなしに(ということがなく)。どこまで生きても何年生きても生ききれないようないのちをいただいておる。そういうことが一つはっきりした・・・


今日の讃題は歎異抄後序、
まことに如来の御恩ということをばさたなくして、われもひとも、よしあしということをのみもうしあえり。
如来さんのことをほったらかして、いいとか悪いとかばかりにこころをくだいている、
聖人のおおせには、「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり。そのゆえは、如来の御こころによしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、よきをしりたるにてもあらめ。如来のあしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、あしさをしりたるにてもあらめど、
如来さんと同じほどよし・あしを知るならわかるだろうが、

煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします


三日間お付き合いいただき、誠にありがとうございました。
いろいろ優しい声を掛けていただきまして、毎日楽しみにして参りました。
また皆さん連日本当にたくさんのお参りをありがとうございました。
参りにおいでるご門徒の方々をみて、いつも思うのは、それぞれに用事があるはずなのに、他にせんなん用事をほったらかして、ようこそ参ってくださったと頭が下がります。今後とも共に聴聞させていただきたいと思います。
またどうかよろしくお願いいたします。