大切な猫のお葬式

月曜日に、七日参りに行ったんですが、ほしたら「ちょうどよかった」といわれた。かわいがっていた猫が死んでしまった。昨日の夜隣村で鼻から血を流して死んでいた。孫が泣いて泣いて死んだ猫を放さない、一緒に寝て泣いておる、わしもかわいそうで眠れなかった、どうかお経をあげてほしい、」とおっしゃった。それは悲しいことですね。飼っている動物が亡くなるというのも本当に悲しい。それが突然ならいうまでもないですね。

「わかりました」とね、おばあちゃんの七日参りのお勤めを済ませてから、猫ちゃんの葬式をすることにした。死んだ猫をかわいらしいミスタードーナツの毛布に包んで持ってきて、孫は泣いている。
父ちゃんが聞いた、「どこにおけばいいかね」
浄土真宗は亡くなったものの為にお経をあげません、お経は残された私たちのためにあげます。亡くなったものはお経をあげることで楽になったり浄土へいったりしない、もう亡くなったときにすでに浄土へ還っています。」昨日の晩も浄土真宗は「追善供養」というのをしない、お経をあげることや法要をすることが死者への「善」にならないんです。そういう話をしていたんです。
「亡くなったねこちゃんが、生きとるものは必ず死ぬということを身をもって教えてくれた。亡くなったばあちゃんと猫ちゃんと先に行ってまっとるぞ、ということです。」「ですから、どこに置くかは決まっていない、どこに置きたいか、孫さんの置きたい所にどうか置いてください。」

そして阿弥陀経をあげてお焼香をして、最後に御文を読んだ。それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。お葬式にもあげられる、「白骨の御文」ですが、孫さんはまだ20歳にもなっていないほどでしたので、現代語でお伝えすることにしました。
さて、「人間の」というわけには行かないので、「生きとし生けるもの」に代えて、生きとし生きるもののはなかいありさまをよく見るならば、本当にはかないものは、この世の最初から最後までの全てがそうであり、一生も幻のようなものです。

されば、いまだ万歳の人身をうけたりという事をきかず。一生すぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。
いまだ万年生きた人の話は聞いたことがない、一生は過ぎやすい、今に至るまで、誰が百年の肉体を保つことが出来ることでしょう。

我やさき、人やさき、きょうともしらず、あすともしらず、おくれさきだつ人は、もとのしずく、すえの露よりもしげしといえり。
私が先か、あの人が先か、今日かもしれない、明日かもしれない。後に残る人、先に逝くいのちの数は、木の根もとのしずくや葉っぱの先の露よりも多い。
されば朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり。
朝に元気な顔であっても、夕方には白骨となってしまうような身なのです。

すでに無常の風きたりぬれば、すなわちふたつのまなこたちまちにとじ、ひとつのいきながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李のよそおいをうしないぬるときは、六親眷属あつまりてなげきかなしめども、更にその甲斐あるべからず。
無常(常ではない、変わらないことはない)の風が襲いかかって来れば、ただちに両眼は閉じて、息は永遠に絶えてしまいます。美しい顔もみなしく朽ち、桃やすももの花のような美しさは消え失せて、家族や親族が集まって嘆き悲しんでも、どうすることも出来ません。

さてしもあるべき事ならねばとて、野外におくりて夜半のけぶりとなしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。あわれというも中々おろかなり。されば、人間のはかなき事は、老少不定のさかいなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏もうすべきものなり。
やむなく野辺の送りをして(火葬して)夜の煙となってしまえば、だだ白骨だけが残るのです。「哀れ」といってもとうてい口に尽くせないものがあります。ですから、生きていることがはかないというのは、老いた物より若い者のほうが先に亡くなって行くこともあるという、定めなきことですから、全ての人は早く後生の一大事(念仏の教え)を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみ念仏を申していきましょう。あなかしこ、あなかしこ。

だまって一生懸命聞いておられた。「どうか埋めてあげてくださいね」と最後に私が言うたら、帰ろうとしたら、とうちゃんがお布施を持ってこられた。ですから、「こんで、お布施をいただきましたよ、これが大事です。お布施をいただいたということで、残された私たちが、弔ったぞ、ということになります。」正直猫が死んでしもうた、と大事な門徒が嘆いていたら、私も出来ることがあれば何でもしたいと思っていたので、お布施をいただくということを忘れていた。お布施は他宗では「行」修行の一つで、お布施することで利益がある、というのですが、浄土真宗には、念仏の他はみな雑行(雑多な行)だ、念仏をフォローする助行だという、お布施の利益を説かない。でもどうですかね、死んでもうたら、もう線香をあげてお布施することしか出来ることがないんでないですかね、亡くなったものの為にお経をあげない、そういうけれども、意味とかではなくて、もっと深い、死に別れたものを弔いたい、そういう気持ちが私たちの中にあると思います。