祠堂経法話「カルト教団」との違い07.03.13.

何気なく「cancam」という20代の女性雑誌を買って見た。「パワーフォーリビング」の広告が載っていた。ミュージシャンのm-floメンバーの写真とメッセージ、

何のために生まれてきたのだろう。
何をすべきなのだろう。
(中略)
そして、あの日、僕は神を信じた。
あの日がなければ、いまも、人生に答えを見出せないでいた。
(中略)
今の僕には、心から信じられるものがある。
人生の答えも、いつも、ここからやってくる。
僕はこの本のメッセージで、人生の答えを見つけました。

<何のために生まれてきたのだろう。何をすべきなのだろう。>
という問いは、若い人の歌詞にもよくある。その大きな問いに目覚めるように気がつくときがあると思う。

<そして、あの日、僕は神を信じた。あの日がなければ、いまも、人生に答えを見出せないでいた。>
それを真宗では光明体験(こうみょうたいけん)とでもいうのだろうか、あるいは「回心えしん」というか、「回心ひとたび」(回心は一度)といいながら、回心はであい続けることだと和田先生は言った。わかったといって掴んだりしがみついたりすることを言い当てられた。もっとはっきりいうとこれを否定した。
最近買った『ひぐらし正信偈』亀井しずか、光明体験を「へでもない」。


また佐野明弘さんは「迷いが深い」のだと、
私たちはこうして聞いてはいるけれども何が聞きたいのか、逆に言うと聞かねばならないものがある。今日まで聞いてきたけれどももっと深い言葉が聞きたいということがあると思うんです。そういう自分たちの思いに先立つ何か宗教心というか、そんなものを一緒に考えていくことが出来ないかなと思っています。

答えをつかんでそれでもって一生涯やっていこうとするものが欲しいんですねぇ。これ一本でいけるぞと。何が来てもこいつで、あの時わかった喜びで乗り切っていこうと思っているんですよ。

ところがね、そうはいかないんですよね。その時わかったことでは終えられない、それは迷いが深いからね。人間は苦悩から去ることが出来ません。だけどその苦悩っていうことが、また新たなるいよいよ深い言葉を聞いていくことになるわけですけれどもね。だからどこまでも命のある限り聞いていきたいものがあるということでしょう。

思えば問題が深刻真剣なときは、「あの時わかった喜びで乗り切れた」ことは、ない。それを迷いの深さという、生きることは迷いが深い。しみるなぁ、とのんきな私は思った、どうですかね。


さて、最後にもう一言、
<今の僕には、心から信じられるものがある。人生の答えも、いつも、ここからやってくる。僕はこの本のメッセージで、人生の答えを見つけました。>
そんなことをご門徒さんや若い衆や子どもたちに言えないわぁ、すごいわ。
信じられるもの、私は、罪悪深重、煩悩熾盛、内懐虚仮、名利心、中途半端。もちろんこれは真実の南無阿弥陀仏(法の深信ほうのじんしん)から知らされる機の深信(きのじんしん)の内容なんだけれども。ああ、おちつけない、ということもあるな、佐野さんは迷いが深いと、迷いが深いから苦悩から去ることが出来ないとおっしゃっていた。
そして一番大きいのが、和田先生がのこしてくれた言葉、「妄念、妄想」こんな大事なことってないな。「正しいこと」で傷つけなくていいものね。なにか違うものになってたすからなくていいのだと思う。嘘やまやかしや偶像崇拝でない真実を求めたい。真宗というのは真を宗にする、真実を中心にする、ということですね。人生の答えかぁ。生老病死の他にあるのかなぁ。で、いるのかなぁ。
そんなふうに思いましたが、どうですかね。


浄土真宗を一言で言うなら、「唯念仏」です。ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。

ところが昨日もお伝えしました、歎異抄九条、
「お念仏を申しておりますものの、踊りあがるほどの喜びもさほどおこってこない、いそいでお浄土へ参りたいという心にもなれませんが、いったいどうしたことでごさいましょうか」と唯円房ゆいえんぼう、が親鸞聖人にたずねた。

親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。「親鸞も思うておった。しかし、よくよく考えてみると、天に舞い地に踊るほど喜ぶべきはずのことを喜べないからこそ、いよいよもって往生は決定していると思うべきです。喜ぶべき心をおさえて喜ばせないのは、煩悩の所為しわざです。

しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。他力の悲願はこのような私たちのためにこそおこされたのであった頷かれて、いよいよ心強く思われるのです。


そして今日の讃題であります、歎異抄九条の言葉が続きます。
また急いで浄土へ参りたいという心もなく、ちょっと病気でもしようものなら、このまま死んでしまうのではないだろうかと心細く思うのも煩悩の所為しわざです。

久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、久遠の昔から今日まで、限りない流転を続けてきたこの苦悩のふるさとは、どうしても捨てがたく、いまだうまれざる安養の浄土はこいしからずそうろうまだ生まれたことのない永遠の安らぎの世界である阿弥陀の浄土が恋しくも思えないということは、本当によくよく強く盛んな煩悩だからでありましょう。

なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるときに、かの土へはまいるべきなり。しかし、どんなに名残惜しいと思えても、この世の縁がつきて力なく生命の終わるときに、彼の阿弥陀の浄土へ生まれるのです。

思えば阿弥陀は、急いで浄土へ参りたいという心のないものを、ことのほかいとおしんでくださるのです。それならばこそ、いよいよ大悲・大願は心強く、また往生は決定しているのだと思うべきであります。

踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へまいりたくそうらわんには、煩悩のなきやらんと、あやしくそうらいなまし」と云々

もしも踊りあがるような喜びがあり、また急いで浄土へ参りたいというようなことでもあれば、自分には煩悩がないのではなかろうかと、かえって不審におもわれることでありましょう」と聖人は教えてくださいました。

そういう言葉をお伝えいたしまして、今日のお話を終えさせていただきます。